◆ドンキーコング◆
ファミコンが我が家にやってきた!



(ROM版)発売日:1983年7月15日   発売元:任天堂   ジャンル:ACT
値段:3800円   おすすめ度:3.5(1画面ながらもこの面白さ)

(Disk版:片面)発売日:1988年4月8日   発売元:任天堂
値段:500円(書き換え専用)


1980年代前半、日本では電子ゲームブームが巻き起こっていた。 ただし、電子ゲームといってもFCやPCエンジンなどといったものではなく、『LSIゲーム』や『ゲーム&ウォッチ』といった携帯ゲーム(当然GBやGGなどの携帯ゲームは含まれない)のことであるのだが。

それに加えて、『ゲームセンターあらし』の大ヒット(アニメ版より漫画版のほうが大きい)により、マイコンブームも巻き起こっていた。 マイコンとは、パソコンの昔の名称のことであり、それよりもさらに小型化したパソコン型ゲーム機、さらに言えば自分の趣味に使うためのパソコン、すなわち『ホビーパソコン』のことでもある。

主、トミーの『ぴゅう太』やバンダイの『RX−78』、富士通の『FM−7』シリーズや家電メーカーなどの企業が制作した『MSX』などがある。 80年代後半になると、シャープの『X68000』やNECの『PC−9800』シリーズなどが登場するが、 ここから実務レベルに耐えられるパソコンとしての色合いが前面に出ているので、これらの機器は取り上げない。

さらに、FCなどにおける据え置きゲーム機としてエポック社の『カセットビジョン』が、それより前の70年代後半には、 任天堂から『カラーテレビゲーム』シリーズが登場し、現在のゲーム競争に勝るともとも劣らずな雰囲気を表していた。

世界に目を向けてみると、日本以上にゲーム競争が過熱しており、特にアメリカではアタリ社が開発したゲーム機『Atari 2600』が1977年に登場し、 5年間で全世界において約2500万台売れ、日本でも多くが輸入され『アタリ神話』と呼ばれるほどその人気はヒートアップしていった。 そのゲーム機は、発売当初『Video Computer Sistem(ビデオコンピューターシステム)』と呼ばれていた(以下VCS)。


だが、商品が大ヒットしそれに関連のある市場がにぎわうと、その商品に関連のある会社のみならず、利益につられて全く関係のない会社などが大量に参入し、結果的にその市場は崩壊することは歴史が証明している。 ゲーム市場においては、それが顕著に現れており、ハードはもちろんそれ以上にソフトの質が低いとユーザーの不満が高まるようになり、最終的には市場は大崩壊を起こすことになる。

つまるところ、威力がどんどん増加して、最後は大爆発を起こす時限爆弾と思ってくれればいい。 今こそは、ユーザーの不満の度合いは乱高下しているとはいえ、その値はそれほどでもないのでよもや大崩壊が起こることがないのだが、実は今から25年近く前に大崩壊をしたことがある。

場所はアメリカで、その原因は大ヒットしたVCSにあった。 VCSのソフトは、『スペースインベーダー』や『バトルゾーン』といった著名AC作品を移植したものがあったが、それ以上に質の低いオリジナルゲームが多かった。

そこまでは、現在のゲーム市場とさして変わらないのだが、VCS市場崩壊の一番の要因はアタリ社が他社が発売するゲームの内容を全く把握していなかったことにあり、 『ファミマガ』や『ファミ通』といったゲームレビュー雑誌も存在していなかったことも、その要因の1つでもある。

このため、ユーザーはおもちゃ屋でゲームの箱絵を見てゲームのジャンルや面白さなどを推測せざるをえなくなり、 買ってから本体に差し込むまで面白いかどうかわからない状況にさせられてしまい、VCSの質の低いソフトに失望し、次第にVCSの興味を失っていった。


一方のゲーム業界は、制作会社が次々と参入と撤退を繰り返し、その中で開発会社の倒産ソフトの大量流入による価格崩壊などが相まって、 ユーザーに新作ソフトの面白さを疑問視する声が相次いだ。

その結果、1982年のクリスマス商戦では、玩具店やゲーム会社などが市場規模の大幅拡大を予測して、大量のソフトを確保するという強気の姿勢を見せたが、 ユーザーからはVCS市場は既に崩壊していると見ており、現にこの年の市場は最盛期と比べて大幅に縮小していたのである。

これにより、アメリカ全土のゲーム小売店は、大量の在庫を抱えることになり、翌年にはそれを扱う小売店の大部分が倒産の憂き目にあった。 さらにゲーム市場の崩壊は、アメリカの株価をも大幅に下落させることになり、経済をも悪化させることになった。 これを、1971年に起こった『ニクソンショック』に由来して、『アタリショック』と呼ぶことになる。

アタリショックにおける日本への影響は、アメリカと比べてそれほど大きくはなかった。 日本の家庭用ゲーム市場は、ホビーパソコンやLSIゲームがほぼ独占していたことと、故にVCSがあまり日本に伝わらなかったこと、 ヘビーゲーマーの多くは家庭用ゲームよりもアーケードをプレイする比率が多かったことなどが挙げられる。 このため、アメリカでアタリショックが起こって以降も、日本のゲーム市場はなんら変わってはいなかったのである。

だが、そんな日本のゲーム市場に危機感を持った会社があった、任天堂である。

任天堂は、かつては花札やトランプといった大手テーブルゲーム会社で、コンピューターゲームとは全く無関係であったが、 1970年に『光線銃SP』を売り出して以降、エレクトロニクス分野に進出し、かつてのイメージから少しず離れていった。

そして、1977年6月に『カラーテレビゲーム6』と『カラーテレビゲーム15』の2種類を出し、値段も1万円を切る低価格で売り出した結果、瞬く間に売れたという。 この機械は、現在の据え置きゲーム機とはやや似ており、ゲーム機にゲームを内蔵しており、テレビにつないで遊ぶものである。 これにより、任天堂はエレクトロニクス会社からコンピューター会社へと、異例の変身を遂げた。


だが、長く続くかと思われていた任天堂のもくろみは、あっさりと無に帰してしまう。 その理由は、カラーテレビゲームシリーズのゲーム内容が、単純で奥が浅かったのである。

その後、『レーシング112』や『ブロック崩し』といったカラーテレビゲームシリーズと同じ機械を売り出すものの、鳴かず飛ばずな状況により、 任天堂のコンピューターゲーム産業は完全に沈下してしまい、1979年に『スペースフィーバー』というスペースインベーダーの亜流を作ることになった。 これは言ってみれば、他者のゲームの真似事をするということであり、他社のゲームを真似してまで会社の命脈を保つという苦肉の策に頼らざるを得なくなった。

この、1977年から1980年までの3年間での大打撃により、任天堂の力は大きく衰え、後のアタリショックさながらの状況が続いた。 いわば、アタリショック任天堂バージョンと呼ぶべきだろうか。

任天堂は、既にゲーム市場の崩壊をアメリカのゲーム会社よりも早く体験してきたため、アメリカでアタリショックが起こってもあまり混乱せず、冷静にその惨状を見つめていた。 そして、日本でのゲーム業界の現状を見て、かなり強く警鐘を鳴らした。 今でこそ、日本のゲーム市場は平静を保っているものの、このままではアタリショックの二の舞になるというのである。

当時のゲーム市場は、マイコンや電子ゲームの大ヒットにより支えられていたが、ゲームの内容は他者の製品と似たものが多く、粗悪な模造品も出回るようになってきた。 大ヒットした『ゲーム&ウォッチ』も、『オクトパス』や『オイルパニック』などのヒット作が登場したが、『ゲーム&ウォッチ』というタイトルからして時計の機能も併せ持っていた。

つまり、「これは時計なんだ。」ということで買ってもらったのはいいが、別のゲームをやろうにもあくまで時計ということで、 よほどのことがない限り2個目以降を買ってもらえることはまずなかった。 これは、ゲーム市場の命綱ともいえる子供の購入層が大量買い出来ないという致命的な弱点をさらけ出してしまったこととなる。

これに気づいた任天堂は、電子ゲームに代わる新たなゲームの主役を世に送り出すことにした。 1981年、『ヤングコンピューター』というコードネームで企画がスタートした任天堂が目指したゲーム機は、アタリのVCSであった。

VCSは、あくまでゲームをするための機械であったため、性能もいたってシンプルであった。 任天堂のゲーム機は、2つのコントローラーとRF出力端子、拡張コネクタにACアダプターとゲームをするのに最低限の装備を備えていた。 そのコントローラーは、1Pが十字キーとABボタン、スタートとセレクトボタン、2Pがスタートとセレクトを省く代わりにマイク機能を配備している。

本体は赤と白の両極端の色を使っているが、これは2つの色が当時最も安い値段の部材の色に由来している。 ゲーム機の名前は『ファミリーコンピュータ(以下FC)』と決まったが、これはおもちゃではなく『コンピュータ』であり、 『ファミリー』で楽しく使うことをこめてつけられたものだと考えられるが、結局のところ普通のゲーム機であることには変わりなく、 親の財布の紐を緩めるための方便にしか過ぎなかったというのが一般的となっている。ともあれ、任天堂のFCの本体は出来上がった。

任天堂は、続いてソフト開発に取り掛かったが、ハード以上にソフト開発には力を入れていた。 アメリカで起きた、アタリショックの恐ろしさを真に受けた任天堂は、日本で第2のアタリショックを出さないために、必要以上に神経を尖らせていた。 このため、いくつかの対応策がとられることになった。

ひとつは、ソフトの過剰供給を抑えるために、FC発売からしばらくの間は、ハード開発元の任天堂がソフト供給を請け負うことになったこと。 もうひとつは、そのソフト過剰供給を抑えつつソフトの質の向上化を図るべく、任天堂以外のゲーム会社すなわちサードパーティの参加には、任天堂の許可が必要であること。

下手をすれば、独占禁止法違反すれすれになる危険な判断であり、事実その任天堂の許可にはライセンス料金を支払わねばならず、 関係者から『一人勝ち』や『京都朝廷』といった任天堂の利益独占システムと激しく非難していたが、 裏を返せばそれほどまでに、任天堂はアタリショックの再来を大変恐れていたともいえる。


最後に、初めて出すソフトの内容は、オリジナルではなくACからの移植にした。 これは、当時のゲーム情報は雑誌ではなく口コミが多かったことが理由となっている。

つまり、オリジナルのゲームを出すよりもACで人気があったゲームを移植した方が都合がいいと判断したのだろう。 また、複数のソフトを本体と同時発売することにより、次のゲームが発売するまでの間を保つことが出来ると考えたと思われる。

こうして1983年7月15日、ファミリーコンピューター本体と関連ソフト3本が同時発売され、本体は14800円ソフトは3800円と、 当時としては異例の安さで販売された(もちろん親としては、高い買い物ということに変わりはなかったが)。

発売当初は、LSIゲームなどと同じ電子ゲームの1つという扱いを受けたが、次第に電子ゲームとは一線を画すものだという認識が目立った。 事実、大人にも耐えうるソフトも発売され、ソフトによっては200万本以上売れるロングセラーのものもあった。 そして、当時カラーゲームの主役だったエポック社の『カセットビジョン』から、その主役を奪うほどの人気を出し、 発売から3年後には流行語大賞に『ファミコン』が選ばれるほど、日本全土いや全世界に知れ渡ることになる。

本体と、同時発売された関連ソフトの3本は、『ドンキーコング』、『ドンキーコングjr.』、『ポパイ』で、全てACからの移植である。 ドンキーコングが、FCソフト第1弾に認定されているのは、3本発売されたソフトの中でAC版誕生が一番古いため。

FC誕生以前にも、VCSやカセットビジョンなどのゲームもACゲームを移植していたのだが、FCが目指した移植はAC版に近くなるように目指していた。 グラフィックやBGMも、それらと比べてほとんど変わりない出来を見たユーザーは、FCを支持するようになった。


ここで紹介する『ドンキーコング』は、任天堂制作で1981年にACに登場し、当初は社内であまり評判が悪かったが、ふたを開けてみれば予想をはるかに上回る人気を得た。 当時のゲーム会社では、宇宙を舞台とするゲームが人気があると誰もが予想していたが、 それとは全く違うゲームが人気を得たことは、ゲーマーが宇宙を舞台とするゲームに対し食傷気味であったことを意味している。

内容は、タイトルにある名前のゴリラのドンキーコングから、ヒゲオヤジのマリオがレディを助け出すもので、ステージは4つ用意されている。 このとき、任天堂の名物キャラ『マリオ』の名前は、ここから生まれたと同時に彼の活躍とドンキーコングとの確執(それと協力)もここから始まった。 1画面しかないが、4ステージとも全く違う内容で、ドンキーコングが仕掛ける妨害も全く違っていることも、ゲーマーから新鮮だと受け止められた。 また、ステージ内にあるハンマーで、コングの妨害を『迎撃』するシステムも、新鮮であった。


このゲームの人気により、やはり類似ゲームが登場したが、その中で有名なものはファルコン社が制作した『クレイジーコング』であろう。 一応、任天堂には北米以外の地域で出すことで許可をもらっていたらしいのだが、知らぬ間に北米へ流通してしまい、結果違法流通という形となってしまった。 ともあれ、元のゲームが人気あったためこちらも人気があり、同年続編である『クレイジーコングPARTU』が登場した(しかもクレイジーコングを流用した海賊版も大量に登場した)。

FC版は、AC版と比べると2面のベルトコンベアーステージが丸まる削除された。 容量の都合上であったが、一部のゲーマーからは「2面より3面のリフトステージを削除しろ」という声もあった。 だが、結局FC版で完全版が登場することはなかった。


ちなみに、1面の右下のはしごの上から右に向かってジャンプすると、そのまま2面に進めてしまうワープ技がAC版で存在した。 元々この裏技は、一部のAC版にしか出ない裏技であり、いってみればバグ技でもあったので、当然FC版では存在しない(AC版の後期バージョンも同様)。 このため、この裏技をやったゲーマーがFC版で試そうとして、かなりの数のマリオが転落死することとなった。

だがFC版では、その代わりとして一番下から一番上に移動できる裏技が追加された。 おそらく、AC版でのワープ技を体験したゲーマーへの配慮かと思われる。

私は、FC版をプレイしたのは本体発売から約4年後のこと。いとこから、色々ゲームソフトをもらったのだが、その中に『ドンキーコング』があった。 当時、AC版のことを知らなかった私は、削られた2面のことも全く知らなかったので、ドンキーコングが3面までなんだと思っていた。

もちろん、そのときは『スーパーマリオブラザーズ』も既にプレイしていたので、何でヒゲオヤジが主人公かといった疑問もなく、 マリオがあっさり死ぬということも他の色んなゲームをプレイしたこともあって、特に違和感というものは何一つなかった。


FC発売からちょうど20年後の2003年、その記念に発行されたムックで、私はようやくAC版の全てを知ることが出来た。 さらに翌年は、インターネットにあるJAVAゲームで、AC版をただでプレイすることが出来た。

JAVAの方は、コントローラーではなくキーボードでしか操作出来なかったので、FC版のように簡単にプレイは出来なかったが、 それでもようやく初めてのAC版をプレイすることが出来た私は、喜びに満ちていた。

去年、このゲームをレビューした際、めちゃくちゃな文章と画像を多く貼りすぎてしまったため、 もう一度ゲームをプレイしつつ、AC版の誕生とファミコン誕生までの歴史を紐解くため、ネットや本といった資料を再び使用した。

そんな過程でプレイしたドンキーコングは、とても新鮮に感じた。それと、全くプレイしていなかった『GAME B』モードをプレイした。 やはり、普通にプレイするにはかなり難しすぎたが、そこはAC版をプレイした私の勘と努力で何とかクリアした、1周目だけは。



本日のまとめ


ドンキーコング第1部


(06/11/23修正)
伝説のスターブロブ2への掲載:2019年4月2日
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