「入ってこないで頂戴!!」
「えーと…ゴメン。アリアちゃんとシャープが帰ってきたらしいんだ、一緒に迎えに出てもらいたくて…どうしたの?」
「ど、どうもこうも…セレス、あなた何かしたのでしょう…!?急に部屋を出ていって、何をしてたの!?」
「いや…癒しの司の奇跡の力で願いを叶えてもらうなら今しかないって思って…」
「…それで?」
「「人として生きることを希望する者が皆、人として生きるように」って願っただけだよ。ヴィオちゃんが、 ぼくともっともっと一緒にいてくれるなら嬉しいなって…」
「そういうこと…分かったわ、ローズマリーに埋め込まれた変な力が全部抜けて、めでたく私は人間に戻れたみたいよ…」
「そ、それはよかった。それで、どうして部屋に入っちゃいけないのかな…?」
「……が…」
「え?」
「服が…胸の部分が裂けてしまったのよ!性別が戻ったみたいなの、何でもいいから服を持ってきて!!」
「あ〜…ははは、はいはい〜」
「覗いたら許さないわよ?!」
「は〜い」






「フォルテ!おい、フォルテ!!大丈夫か!?」
「あ、エバ…なんか、エバの顔が目の前にあるのって新鮮…」
「ちゃんと目は見えてる?体は動くか?」
「ん…ちょっと硬いっていうか、軋むっていうか…でも、問題ないよ。慣れると思う」
「よかった…」

コンチェルトの王宮の、凍らされた癒しの司フォルテの体が安置してある部屋。 そこに駆け込んできたエバは目を覚ましたフォルテに安心して力が抜けたように寝台にへたり込んだ。

「フォルテ君!具合はどう?」
「ニヒトさん…ええと、エバの体に慣れていたからちょっと体のサイズが小さい気がするけど… 徐々に感覚を取り戻していこうと思います。……あ」
「どうした?」

遅れて部屋にやってきたニヒトに起き上がりながら答えていたフォルテだったが、 何かに気付いたようにびくっと身を震わせる。エバは顔を上げてフォルテを覗き込んだ。

「体が戻って、癒しの司の記憶が全部戻った…使命も、思い出したよ。今更だけど…」
「結果オーライだろ。そんなことよりも、フォルテの体が溶けたって知らせを受けた瞬間、 俺は肝が冷えたよ…精神がすっぽ抜けた体なんて、どうなるか分からないし。 いや、分かるか…多分、腐っていく」
「怖いこと言わないでよ…」

わざと深刻そうに言うエバに、フォルテは苦笑する。フォルテの様子を観察して、 大丈夫そうだなと判断したエバはフォルテが復活したとなると騒がしくなるだろうから 後でゆっくり話そうな、と手を振って部屋の外に向かい始めた。

ほら行くよ、とニヒトの腕を引っ張る。

「え、なに?エバくん」
「おっ、シェリオも来たか。フォルテが目を覚ましたって知らせに行くから、 その間ちょっとフォルテを頼む」
「あ、ああ…分かった」

ニヒトの腕をしっかりと掴んでおり、逃がさないようにも見えるその様子がシェリオは少し気になったが、 フォルテが元に戻ったのか、と内心ドキドキしながら部屋へ入っていく。

部屋の外に出たエバは部屋の左右にいたニヒトの護衛の神官たちにちょっと遠慮してくれるか、と 手を振り人々の間を抜けて廊下を進んだ。そして途中で扉が少し開いている 無人の部屋を見つけてそこに入る。中には楽譜を置くための台がいくつか立っていて 壁の一面は本棚になっていた。小さめの音楽室らしい。

部屋の奥に引っ張り込まれたニヒトは、どうしたんだろ、と何もわかっていない笑顔をエバに向けている。

「…今は俺の中にフォルテがいないから、単刀直入に尋ねさせてもらいますけど」
「な、なに?」
「ニヒトさん、メルディナを崩壊させるつもりだったんですか?」
「……え?」

突然の問いに、ニヒトは思わず聞き返した。しかもその質問の内容は衝撃的なものである。 しかしエバはニヒトが返答するまで動かない、と言わんばかりにニヒトと同じ金色の目で ニヒトを見つめ続けた。

ええと、と言い出しにくそうにニヒトは視線を泳がせる。

「さ、さっきの…えいせいそこう、ってやつの…?」
「そうですね。一緒に聞いてたでしょ。どうやら成功しなかったみたいで、 そのおかげでフォルテの時間も溶けたみたいだけど…聖の力を行使するのがニヒトさんの役目なら、 あの瞬間にニヒトさんがそうしなければいけなかったかもしれないってことですか?」
「それ、は…」

エバの表情は真剣そのもので、怒られているみたいだ、とニヒトは怯えていた。 しかし、ちゃんと答えなきゃ、エバ君には答えたい、と自分の意思でそう思って大きく頷く。

「そう…だよ…理がそう判断したならば。私は命じられた通りに聖で奇跡を起こす」
「さっきも、別で奇跡を起こしましたね?」
「…理がそう命じたから」
「はい…分かりました」

ふっとエバは頬を緩ませ、ニヒトに近づいた。もう大丈夫ですよ、と頭を撫でる。

「エバ君、怖かった…」
「だって、大事なことですから。最高神官が世界で最も重要なわけだ… ニヒトさんが聖の力の行使者だって知っている人は他にどれほどいるんです?」
「偉い人は何人か…でも正確にどの人がとか何人かとかは、分かんない」
「やれやれ」

エバは意味もなく頭をがしがし掻いた。そしてニヒトの肩を持って部屋の外に促す。

「俺、癒しの司の従者っていう役職を失ったもんだから、やることないんですよね」
「へえ…?」
「ソルディーネ家の当主はシェリオだし」
「でもエバ君、帰ってきてからも家の管理の仕事してたんじゃ…」
「ここで、最高神官の甥の特権を使っていいですか」
「…えっ、なになに?」

何を言われるのかなんとなくわかった気がして、ニヒトの目は自然と輝いていた。

「最高神官ニーベルリヒトの、側近にして下さい。お世話もするし、護衛もするし、相談にも乗ります。 聖の力でニヒトさんが一人苦しまなくて済む手段を、お傍で探したいんです」
「…うんっ!!」

エバの申し入れに、ニヒトは屈託のない笑顔で大きく頷く。わーいわーいと無邪気に喜ぶニヒトを見て、 確かにこの人は世界で最も聖の力を持つに相応しい人なんだろうな、と納得した。






「気分はどう?フォルテ」
「それは問題ないよ。体はずっと寝てたけど、精神はエバの中にあったから別に 意識がなかったわけじゃないし、エバと入れ替わればその体だって動かしたから自分の体を 動かすのに慣れないってこともないしね」
「そっか、まあ、これが一番よかったんだよな。フォルテが殺されたって聞いたときは 目の前が真っ暗になったけど」
「はは…心配かけて、ゴメンね。まさか、こんな形で再会することになるとは思ってなかったよ…」

フォルテが目を覚ましたとエバが伝えに行ったとなると、この部屋を動かない方がいいだろうと思って 起き上がったフォルテの横にシェリオは よいせ、と腰掛ける。

その横顔をフォルテはずっと目で追っており、それに気づいたシェリオがなんだよ、と笑った。

「顔に何かついてる?」
「シェリオ…」
「ん?」
「3年前…ぼくが癒しの司になったとき、先代の癒しの司からすべての記憶を継いだんだ。 聖墓キュラアルティから出てしまった今、ぼくはもう癒しの司ではないしその記憶も どんどん薄れていっているけど…受け継いだ時のことはまだ覚えてる」
「へえ…先代っていうと、イル…だっけ?」
「……」

なぜかフォルテはシェリオの言葉に答えようとしない。聞こえていなかったわけじゃないだろうし、 どうしたんだろうとシェリオは首をかしげる。

「…もっともっと、よく知っている人だったんでしょ」
「え…誰が?イルが?」
「イル様が消滅しようとしている時、ぼくは癒しの司の役目を受け継いだ。 その時、最も強かったイル様の思いは…500年前、白蛇を封印した勇者への憂慮だった」
「へ〜…でも、500年前って勇者も白蛇も誰なのかって記録は残ってないんだろ?」

しれっとそう言うシェリオに、フォルテは咎めるような視線を向けた。 驚いたシェリオは怒られるようなことは言ってないぞ、ともごもごと呟く。

「イル様は知ってたんだよ。勇者が初代癒しの司によって呼び戻されたこと、再び白蛇と戦うこと。 でも自分は聖墓キュラアルティから出るわけにはいかないし、当然、手助けもできない。 …そのことを、悔いていた。謝りたいという気持ちをあの時、一番強く感じたよ」

そう言われて、シェリオは黙り込んだ。しばらく二人で視線を合わせることすらせずに 沈黙が流れたが、壁の方を向いた顔はそのままにシェリオがゆっくりと口を開く。

「どうしてそれを俺に…って言う意味は、ないんだよな」
「…うん。ぼくもこの体に戻ってきたから、今はもう分かってる」
「ありがとうフォルテ、話してくれて。俺は一生そのことを忘れずに、生きていくと誓うよ」
「良かった、忘れてしまう前に伝えられて…」

フォルテがそう言ったとき、部屋の外に大勢の人が近づいてきている気配がし始めた。 扉は開いているので、部屋に入ろうとしている人の姿がフォルテたちからもよく見える。

先頭にいたのは、懐かしいフォルテの愛する妹ピアだった。

嬉しそうにフォルテに駆け寄るピアと、立ち上がってそれを迎え入れるフォルテを見ながら シェリオは手を体の前で軽く組んでふう、と小さくため息をつく。しかしその表情は明るいものだった。

「…全く、お兄ちゃんは随分と心配性だな。俺は大丈夫だよ、イル。ありがとな」






「ユフィアはこれからどうするんだ?家に戻るつもりか?」
「あの家は、思い出が多すぎるので…別の場所で静かに暮らそうかと…」
「それなら、この家に住めばいい。ララシャルの家庭教師として、いろいろと教えてやってくれ」
「えっ…いいん、で、しょうか…」
「もちろんだ。部屋も用意させよう……ん?なんだ」
「失礼します、リアン様…屋敷の前に、ユーフォルビア様に会わせろと言ってきかない少年がおりまして…」
「ユフィアに?」
「まさか…」



「ユフィア様!」
「ら…ラブレー…!?」
「もうっ、貴女様の旦那さんですよ!ほら、見てください!尻尾もないし、耳も!」
「人間の耳…馬鹿な、お前は死んだはずじゃ…」
「ぼくがあまりにもユフィア様を愛していたから、神様がぼくを完璧な人間にしてくれたんですよ、きっと! これで正式にユフィア様に求婚できますね、結婚式ができますね!!」
「だ、誰が!毛玉とだなんてまっぴらだよ!!」
「むー、ぼくは毛玉じゃありません!今までもこれからも一生!ユフィア様だけを愛し続けると誓います! どうか、ぼくと結婚してください!!」
「……じ」
「じ?」
「じ…十年、早いよ……」






「あ、フィルくーん!レックくーん!アッシュくーん!!」
「ララシャル…!よかった、無事で…!!」

アイテールから帰ってきた一行は、まずララシャルを家に送り届けようということで ラベル家の屋敷に向かったが、そこにはアリアとシャープの姿があった。 二人で屋敷の門の外に出て、日が暮れそうになっている今の時間まで待っていたらしい。

「レックー!!」

嬉しそうに空に向かって手を振っている人物は他にもいた。 上空からでは壁の陰に隠れて見えていなかったが、アリアとシャープの声に反応して レンとランも姿を見せる。ランは至極嬉しそうにちぎれそうなほど手をぶんぶん振った。

「みんな…!降りるぞフィル…せーのっ」
「よっ」

フィルが地面に降り立ち、それと同時にララシャルとアッシュもエールから飛び降りる。 最後にレックが一度旋回してから空中でファシールの羽ばたきをやめさせてフィルの横に着地した。

「しゃーにいー!!」
「はいはい…全くもう、心配させないでくださいよ…」

ララシャルはシャープに一目散に駆け寄り、シャープはしゃがんでそれを迎える。 そのララシャルの体の左右には盾の状態のエールが浮かんでいたが、 シャープに抱き上げられるとエールは一つにくっついてシャープのブローチとして胸に収まった。

「ララちゃんも、それが使えるんだねえ…」
「あいねー、ララね、びゅーんてね、ふぃーゆをね、ぱっぱーたったーの」
「うんうん、そっか〜…帽子見つかったんだね。いや、ホントに心配したんだからね… ララちゃんに何かあったら、リアンさんになんて言えばいいのか…」
「…父上は、ララにはあらゆる防御力を備えさせてあると言ってあまり心配しないんですよね… 事実、無事に帰ってきてくれたわけですけど…」
「ララちゃんがシャープからエールを掴んで飛んでっちゃったときは、寿命が縮んだよ。食べて伸ばさないと」
「…便利ですね」

アリアは割と本気でお腹がすいているらしく、ララシャルの抱っこはシャープに任せている。 ララシャルは小さな手を振り上げて説明をした後、シャープの顔を触りながら満足そうにうふふと微笑んだ。

「あとちょっとで、コルミンが出発するって言ってたんだぜ!危なかったよ〜」
「そっか…会えてよかった。コルミンはどこにいるんだ?」
「目立つから姿消してる。そこの岩の前にいるよ」

塀から少し離れた位置に立方体の石が飾りとしていくつか置いてある。 その前の広い空間をランが指差し、全員がそちらに注目した。

「なー、コルミン!レックたちが帰ってきたよ!!」

ランはコルミシャークがいるであろう場所へ走っていく。また遠慮なく起こすのだろうか、と レックは少し気の毒に思った。そして、きょとんとしてランの後姿を見ている フィルに気付いて悪巧みのように笑いながらアッシュに顔を寄せた。

「…なあアッシュ、まだあるんだ。一緒にいるのがフィルじゃないんだろな、って思った理由」
「え…なんだよ」
「一つは、カイさんが名工に作らせたっていうフィルがいつも肌身離さず持ってる剣…「真紅」を 宿に忘れたまま飛び出したし、そのあとも一度も思い出さなかったこと」
「ああ…なるほど…」
「もう一つは…」
「もう一つは?」
「…見てたら分かる」

ランが両手を広げて勢いをつけてジャンプし、コルミシャークがいるであろう場所にダイブする。 地面に飛び込んだように見えるランの動作だったが、体は一度ぼよん、と跳ねて空中に停止した。

「おーい!コルミン!起きろー!!」
「相変わらず容赦がない…」

ぼふんぼふんと体当たりを繰り返すランに、レックはやれやれと頭を掻く。 何度目かの衝撃でコルミシャークは目を覚ましたらしく、その体の輪郭が光に覆われて徐々にその姿を現した。

上体を起こして「お座りのポーズ」をとったコルミシャークは くるる、と喉を鳴らしながら巨大な金色の目を半分開けてランを見下ろしている。 その様子を凝視していたフィルは、声も出ないほど驚いていたようだったがついに無言で走り出した。

「かっ……かわいいーッ!!」

先ほどのランと同じかそれ以上の勢いでフィルがコルミシャークに抱きつく。 もこもこの手触りに感動し、指はどうなってるのと白い毛をかき分けて観察し、 そしてまた思い切り両腕に余るほどのコルミシャークの手を抱きしめた。

可愛い、可愛いと連呼しながらひたすらコルミシャークを愛でるフィルに、 レックやアッシュはおろか少し距離のある位置にいるアリアやシャープまでが言葉を失っていた。

「フィル君、動物好きなんだね…私も好きだけどさ」
「私も好きですけれど…ちょっとあそこまで大きいと、動物という感覚で接することができないというか…」

フィルはしがみついていた腕がコルミシャークの顔に近づけられたため、顔に乗って幸せそうにしている。 顔に寝そべることができるほど、コルミシャークは大きかった。

「…な。フィルは、ネコ以外の可愛い動物を見るとああなるんだ」
「へえ…あれも動物っていうくくりなのか…」
「腹の傷の痛みも、ありゃ完全に忘れてるな」
「ネコの方が、可愛いと思うけど…」

しばらくフィルがコルミシャークを堪能するまで一同は待っていたが、 さすがに日が沈んで辺りが暗くなり始めたことにレンが懸念してフィルに降りるように言い、 フィルは渋々コルミシャークから離れる。

「そういえば…ローリエは?」

やっと正気に戻ったフィルは、アリアとシャープと共に逃げたはずのローリエの姿がないことにようやく気付いた。 シャープの腕の中で疲れが限界を迎えて眠り始めてしまったララシャルの頭を撫でながら、アリアが答える。

「フィル君の声が聞こえてローリエ君を逃がさなきゃってことになって、私がローリエ君を抱っこして ローリエ君がシャープを抱っこしてアイテールから逃げ出したんだけど、「海」を抜けたところで その聖獣ちゃんが待っててくれたからローリエ君だけ渡したんだ」

やっぱりローリエも逃げようと思ってくれたんだ、とフィルはそれを聞いて安心した。

「聞いててくれて、よかった…」
「で、ここに着いてからすぐにローリエ君はリアンさんに呼ばれてお屋敷の中に行っちゃったんだけど…あ、来た来た」
「え?」

アリアが遠くに向かって手招きをしている。屋敷の中の広場には、門の方に向かって走ってきている ローリエの姿があった。それを出迎えようと、フィルは夢中で門へ走り寄る。

「ローリエ!」
「フィル君…」

門を開ける係の二人の人の手によって左右に門が開かれ、ローリエはそっと外へ出てきた。 いつもの微笑みが少し硬く緊張した面持ちだったが、フィルと、その後ろにいるアッシュやレックを確認して 安堵したようで肩の力を抜いたのがフィルからも分かった。

「何から話したらいいのか分からないけど…とにかく、おめでとう。 絶対に変えられないと思っていた運命を、君は変えてしまった…フィル君はこの世界の救世主だね」
「そんな大したものじゃないよ。ぼくは凍ってしまった父さんを元に戻したかっただけ。 …まだ全然、親孝行もできてないしね。それに、生まれた時からあんな場所に閉じ込められて 生きるしかなかったアッシュも救いたかった」
「…うん」
「それと、優しくて可哀想で不思議な執事さんもね」
「……」

そう言われて、ローリエは複雑な表情でフィルから目を逸らす。

「ぼくは…ローズマリーに仕えると誓ったはず、なのに…」

辛そうにそう言うローリエに、フィルは思い切り首を横に振った。

「そのローリエを、躊躇なくローズマリーは殺そうとしたんだよ。ローリエはそれすらも受け入れようとしたでしょ」
「……でもね、フィル君…」
「それに…あそこには「ローズマリー」なんて人はいなかった。人も神も、いなかった。 そんな虚しい場所にローリエを縛り付けておくなんて、ぼくは嫌だったんだ」
「……」

いなかった、という言葉にローリエは少し目を見開く。

「フィル君はローズマリーがどういう存在なのか分かったんだ……機械、だっていうことが…」
「ローリエも知ってたんだね。…ぼくがローズマリーと相対していた時間は長くなかったから、 詳細は分からないけど」
「そうか…」

ローリエは手を体の後ろで組み直した。門のそばにいる人に聞かれないようにと少し壁に寄り、小声で話し始める。

「ローズマリーは自分から教えてくれたんだ、自分の全てをデータ化し、思考も体も コンピュータで作り出しているって…それが最も、合理的なんだって。 元はアイテールから出るために行ったらしいんだけど、それでも彼女は実体のようなものを持った状態で あることにこだわったせいか、外へは出られなかった。思考だけは飛ばせたから…ベルを誘うことはできたみたいだね…」

アイテールにアッシュとして存在していた短い期間にベルのことも知る機会はあったが、 アッシュとして居る以上はベルに不用意に接触することもできず、当然説得も働きかけも 何もできなかった。そのことを思い出し、フィルは目を伏せる。

「……」
「…あ、ゴメン。コンピュータってこの世界にはまだないんだよね。なんて説明したらいいのかな…」
「ううん、分かるよ。父さんが口に出すたび、それは何なのか事細かに聞いてたから。 同じことを聞いてしまったとしても、父さんは何度でも説明してくれたんだ」
「ああ…フィル君のお父さんは、とっても物知りなんだもんね」

その時、二人の背後にレンとランが近づいてきた。気づけばいよいよ辺りは照明が必要なほど暗くなってきており、 レンは少し焦った様子でローリエの服を引っ張る。

「話の途中で悪いんだけど、ローリエ。どうするのかは決めた?」
「あ…ええと…」
「どうするって、なにを?」

レンを見下ろし、次にローリエをフィルは覗き込んだ。ローリエは視線を泳がせている。

「今日の陽が沈む前なら、ローリエがいた世界を聖獣が探して、そこに送り届けることができるんだって。 それを望むかどうか、決めてほしいって言ってたんだよ。急で、申し訳ないけど」
「そうだったんだ…」

ローリエが、元の世界に帰れる。それは喜ぶべきことなのだろうが、少し寂しくもあった。

「…ローリエ」
「アッシュ…」

フィルの背後から近づいてきていたアッシュが、ローリエの正面に立つ。 何を言おうかとローリエが考える前に、アッシュの姿を見て思わず笑ってしまった。

「ふふっ…髪が面白いことになってるね」
「うるさい、あとで切り揃える。それよりも…帰るのか」
「……」

元の世界に帰れるかもしれない。そこに、自分の居場所はあるのだろうか。あれからどれだけの時が 経過したのか自分にはもうわからない。しかしこの世界にも、ローズマリーの配下だったという自分の 居場所なんて見出せない。どうするのが正しいのだろうか。しかしレンとランの出発を自分のせいで 遅らせることもできない…。

ローリエが言葉に詰まっていると、フィルがアッシュの髪を意味なく触りながら何気なく言った。 アッシュは迷惑そうにしながらもなすがままである。

「ローリエはこれからもアッシュの執事だって、ぼくに言ってくれたよね」
「それは…」
「コンチェルトで、ローリエには今まで通りアッシュのお茶を入れたり庭の手入れをしたりしてもらいたいんだ。 まだ父さんに許可は得てないけど、絶対に承諾してくれるよ」
「えーと…」

ばつが悪そうにローリエが頬を掻いて視線を逸らす。

「そのことに関しては、このラベル家のご当主リアンさんからも申し出を受けてて…」
「「「えっ」」」

その場にいたほぼ全員が同時に声を上げた。

「リアンさんがそう言うなら、その方がいいのかな…いやでも、ぼくとしては…」
「ずるーい!セレナードの王宮に来てよ!私もローリエ君が作ったクッキー食べたい!」
「菓子も作れるのかローリエ。ここにニヒトさんがいたら絶対に食べたがるってか家に来いって言いそう」
「いや、あの…」

明らかに困っているローリエに、シャープが助け船を出すために手を恐る恐る挙げる。

「皆さん…時間もないようですし、ローリエさんのご意思が最も大切なんじゃないでしょうか…」
「「「……」」」

それもそうだ、と思い思いに発言していたみんなが黙り、ローリエに視線が集まる。

ローズマリーが勝利するとき、ローズマリーがいなくなるとき、そのどちらもが自分の終わりの時だと思っていた。 でも、この世界がまだ自分を受け入れてくれるのだとしたら、自分にできることがあるのだとしたら。 …それとも、元の世界に帰ることこそが道理だろうか。待ってくれている人が、いるだろうか?

あらゆる考えがまた頭を駆け巡り、ローリエは胸の前で手をぎゅっと握って絞り出すように声を出した。

「ぼく、は……」






「急げ、コルミン!まだ間に合う!」
「ランが判断していいものじゃないでしょ」
「でもほら、お日様はまだ沈み切ってないもん!半分ぐらい見えてる!」
「…ギリギリなのはよくないと思うよ。まあ…仕方ないけど」
「結構高く飛んだなあ。みんながあんなにちっさいや」
「へえ、こうやって異なる世界へ移動するんだね。生身で大丈夫なのかな」
「うわー、周りが明るくなってきた。おもしろ〜い」
「ラン…あの人ともう会えなくなるのは、平気なの?本当にもう二度と会えないんだよ。それでも、元の世界に行く方がいいの?」
「だって、コルミンが絶対にそうしろって言うし…それに、お兄ちゃんとはちゃんと楽しくお別れしたし! 一緒に遊んだのは、ずーっと消えないって!約束したから!!」
「……そうやって割り切れるのは、いいことなのかもしれないね」
「ほらレン、周りの景色が消えてきた…わっ、なに?」
「待って!コルミシャーク!!待っ……」
「…なんだよ?急に止まるなんて無理だし。お日様ほんとに沈んじゃったし」
「今…」
「え?」
「今、メイプルがいたような気がして……」


    






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