単語の意味は分からなかったが、体に穴を開けられたらどういう怪我を負うのかと想像すると覚悟をしてきたはずなのに フィルは少しだけ恐怖を感じる。それでも、まだ諦めるわけにはいかないと自分を奮い立たせた。

「…時が止まった物体には、効かないよね?」
「安心してアシュリィ、あなたを狙ってあげるから。穴だらけのチーズみたいにしてあげるわ」
「ははは…笑えないね。…でも、まだまだ足掻かせてもらうよ!!」

再び自分へ向けて発射された空の魔法を今度は目の前に時間を止めた空気の厚い壁を作ることによって防ぐ。 ローズマリーの動きを見ながらも、フィルは必死に心の中で呼びかけていた。

「(アッシュ…ねえ、アッシュ!大丈夫だよね?生きてるよね?レックなら、アッシュを助けられたよね…!?少しでも聞こえてたら返事して! ローリエに、伝えてほしいんだ……うわっ!!)」

真上に移動したローズマリーがフィルの周囲の床を狙って魔法を放つ。フィルは思わず声を上げそうになったが、素早く床を転がって横に避けた。 ローリエが屋敷の外まで無事に逃げられたかを確認したい、それまでは何とか耐えないと、と思いつつも気持ち的に少しずつ追い詰められてきていて フィルは背中に冷や汗が伝うのを感じる。恐怖に竦んでいる暇なんてない、となんとか自分を落ち着かせるために深呼吸をした。

「(どうする…こうなったらもう、賭けるしかないか…!)」

フィルは部屋の中心に向かって走り出した。さっき、ローズマリーはあの近くで地上の人たちに聞かせるように語りかけていた。 それならば自分も、とピアノのある装置の全てに響くように叫ぶ。

「ローリエ!聞こえる?!誰でもいいから、ローリエに伝えて!!」
「何をしようというの、今更…」
「早く、アイテールの外へ逃げて!さっき、時の力を全て解放したから…海の外に出ても、大丈夫!! アリア、レック、誰か、ローリエを連れて……っ!!」
「……」

ローズマリーは無言で凍結の牙をフィルの目の前に突き刺した。フィルを見下ろしているその目は、燃えているかのように赤く光っている。

「そう…そういうことだったの…」
「…そういうことでした。ローリエは自分だけの命ならいざ知らずみんなの未来が懸かってるなら最善を尽くしてくれるはず。あなたも知ってるでしょ」
「……」
「最大限の抵抗をさせてもらうけど、ぼくを殺してオラトリオを奪おうともこの状態ではあなたの目的は達成できないよね。 時の鍵と空の器がここに揃っても、レックがいる以上「海」が壊れることはないし地上の人たちもその間に必ず対抗手段を生み出すよ。 マグノリアをまた作り出してどんな歪んだ教えを施したとしても、いつかはあなたが間違っていると気づく。…アッシュのようにね」

ローズマリーにそう話している間も、どうかローリエに聞こえていますようにとフィルは切実に願っていた。 アイテールのあちこちに花はあるから、きっと誰かが聞いていてローリエに伝えてくれる、そう信じるしかない。 余裕のある様子を見せて話すフィルを怒りを込めて見下ろしていたローズマリーは、急に笑いをこぼした。

「…ふふっ」

オクターブをフィルに向けて魔法を撃ち出す。距離があったのでフィルは素早く飛びのいたが、フィルがいた部分の床には大きな穴が開き それはまた自動的に修復されていった。ドンドンドン、と連続して発射される魔法をフィルは避けたり防いだりして柱の近くまで下がる。

「本当に…姿はアッシュなのに、カイ王子様と話しているようだわ。不愉快で仕方ない」
「それはどうも…父さんに似てるだなんて、最高の誉め言葉だよ」
「その小生意気な顔を絶望に染めてあげましょうか。私の本来の目的を、思い出して御覧なさい?」
「……!」

ローズマリーは左手に持ち替えた剣を、オクターブを持って横に伸ばした自分の腕に向かって振り下ろした。 その行動にフィルは驚いたが、ローズマリーは何のことはなしに自分の体から切り離された腕を見ている。

「なにを……うわっ!」

切り落とした方の腕が投げた剣が回転しながら飛んできたので、 フィルは体勢を低くして避けた。斜め上から投げつけられた剣はガキン、という硬い音を立ててフィルの後ろの柱に突き刺さる。

「地をテラメリタにすること…何にも脅かされることのない、豊かで完全な場所を作り出し、そこに神として君臨することこそ、我が望みであり我が正義。 でもようやく分かったわ…メルディナは、テラメリタに成るに値する場所ではなかったということが」

どういう意味だ、今度は何をするつもりだとローズマリーの動向を僅かも見落とさないように注意を払いつつ、 フィルはゆっくりと立ち上がった。

「私を神と認めない生物が際限なく湧き出る地なんて、もう必要ない。永世遡行が理に反する行為だとするならば私はあえてそれを実行し… 地の崩壊を引き起こしてやるわ。未来の記憶が空間に存在する状態で行う不完全な永世遡行。メルディナの理の怒りに触れる行いでしょう、お姉様? 理が命じ、聖により地は裂け、空は堕ち、海が焼け、全ては灰と帰す。私だってちゃんとお勉強していたのですから、知ってるのよ?」

何も持っていないローズマリーの腕が体からふわりと離れて降下していく。そして手が開かれて甲が上げられ、ピアノの前に置かれた。 宙に浮かぶローズマリーの手の中にはオクターブがあるが、オラトリオはフィルが持っている。 永世遡行をするためにこれをどう奪う気なんだろう、とフィルはオラトリオを両手で体の前で全力で握りしめた。

それに気づいたローズマリーは鼻で笑い、二本の指で持っていたオクターブの軸の部分に手をずらして宝石部分を握る。

「オラトリオを私が持っていないのだから、永世遡行ができるわけがないと思っているのね。 私にしか使えない、オクターブのもう一つの力を開放すれば、全てを我が手に変えることができるの」
「どういう意味…?」
「この空間を全て私の手の中に、私と繋がらせるということ…つまり、あなたがどれだけ手放そうとしなくても、 オラトリオとオクターブのどちらをも私が所持していることにできるのよ」
「なっ……」

思わずフィルは腕を伸ばしてオラトリオを見下ろした。オラトリオの力の流れの違和感に、ローズマリーの言葉が本当だと理解する。 このままでは、とフィルは右手でオラトリオを持って走り出した。

「どうするつもりかしら?私の左手にはオクターブがあり、そこにある私の右手は時空の調べを奏でる。 いっそそこで大人しく眺めていなさいな!!」

広い部屋中に、片手だけで弾いているとは思えないほどの重厚で不安にさせるような旋律が鳴り響く。 演奏している手を止めようとしても上から的にされるだけ、ローズマリーをオラトリオで攻撃しようとも 空気の刃で斬るだけではオクターブの効果は失われず時空の調べを弾き終えられてしまう。

頭の中を様々な考えがよぎる中、フィルは走りながらオラトリオで自分の足を置く場所に時を止めた空気で段を作っていった。

「こちらに来るの…?!」

手を止めに行くと思っていたローズマリーは、自分へ向かって駆け上がってくるフィルに驚愕する。 オクターブをフィルに向けて空の魔法を放つが、フィルは素早い身のこなしでかわしてオラトリオを振り上げた。

「くっ……!!」

フィルが目の前に迫った時のローズマリーの最後の攻撃は、フィルが顔を逸らして避けたものの遅れてなびいた髪に直撃して アッシュの長い髪の先を空の魔法で筒状に切断する。

「……!」

フィルはオラトリオをローズマリーに叩きつけるのではなくオクターブを左手で掴み、 オラトリオを持つ手を滑らせて宝石部分をオクターブにぶつけた。それと同時にローズマリーの右手は最後の和音を弾き終わり ピアノの音が反響する。

「やったわ……」

フィルにオクターブを掴まれてはいるが時空の調べを奏で終えたことでローズマリーは達成感が込められた溜息をついた。 全速力で駆けてきたフィルは息が上がっており、お互い動くことなく至近距離で同じ色の目で見つめ合う。 先に視線を逸らしたのはローズマリーの方で、高い天井へと優雅に視線を向けた。

「残念だったわねアシュリィ、片手でもすべて演奏できた。これで地の崩壊が始まるはずよ。 メルディナが破滅しようとも私の精神だけはデータとなって残り、受信できる対象を探し続けるわ。 アイテールへのあなたのような侵入者を想定していなかったのはあなたが言う通り迂闊だったかもしれないけれど、 このシステムだけは最初に作っておいたのよ…これでメルディナは崩れ去り、私は新たな地で神として……え?」

突然、フィルの体が地面に向かってがくっと落下する。オクターブを掴んでいたのでローズマリーの腕も引っ張られたが、 フィルが自分で手を離したのでそのままフィルは床へ降り立った。

それをローズマリーは宙に浮かんだまま上から見つめていたが、自分の手の中にあるオクターブに異変を感じてそれを凝視し、 次に自分の体の違和感に気付いてオクターブを指に引っ掛けて手のひらを閉じたり開いたりしながら怯えたように叫ぶ。

「な…なに?なんなの?アシュリィ!!いったい何をしたの?!」

狼狽しているローズマリーを見上げていたフィルは、無表情でオラトリオを手放して床にガラン、と転がした。

「えっ…」

ローズマリーは即座に降下してきて、オラトリオを掴み上げる。ピアノの上に置かれていた腕も体に近づいてきて接着し、 両手でオクターブとオラトリオを持ったがその二つの聖玉の感触から首を横に振り、呆然とした。

床に座り込んでいるローズマリーを見下ろしながら、フィルは静かに口を開く。

「オクターブを、オラトリオで封印したんだよ」
「でも、オラトリオで封印したものは私が触れば溶けるはずだわ…!」
「…オラトリオも、オクターブを使って封印したんだ」

なんですって、とローズマリーは振り返って肩越しにフィルを見た。

「オラトリオを薄い空気の上から空間で覆い、オクターブを薄い空間を挟んでから空気で覆った。もうどちらに触れることもできないし、 二つの聖玉の力は遮断されているから時の力も空の力も、この世界にはもう存在しない」
「……」

フィルの説明に納得したのか、ローズマリーは下を向いたままオラトリオとオクターブを床に置いて立ち上がる。 髪で顔が隠れて見えなかったが、肩が小刻みに震えており笑っているようだった。

「ふっふふふ……誤算、だったと認めるわ…まさかあなたが、空の聖玉を使えただなんて…」
「…本当にね」
「どうして使えたのかしら」
「分からないね…全然、分からないよ」

その瞬間、部屋を照らしていた壁の大量のライトがバチンバチン、という音と共に全て消え、窓のない部屋の中は真っ暗になる。 そんな中、確認できるのは淡く光り不自然に揺らめいているローズマリーの体だけだった。

ビリッ、ビリッというノイズと共にローズマリーの姿が不安定に歪み始める。

「悔しい…悔しいわ…また私は、お姉様に勝てなかった…」
「人間であることをやめた時点で、あなたの負けは決まってたんだよ。人間は…データじゃない」
「いいえ、私はローズマリーよ。テラメリタを統べる唯一無二の神。私を拒めば、またメルディナは同じ悲劇を繰り返すことになる…」

ローズマリーの声にザー、という音が混じり、声が途切れ始めた。 体にはライン状の空白があちこちに発生しており、フィルはそれを見て無意識に手を伸ばした。

「今度は間違えないように、みんな頑張ってくれるはずだよ。ぼくはそう信じてる」
「愚かね…どうしようも、なくなった時、私が…正しかったと……気づく時が来る……わ………」
「……」

ガガガ、という耳障りな電子音の大きさがローズマリーの声に勝ったかと思うと、 突然音が途切れてローズマリーの姿も虚空へ掻き消える。ローズマリーがいた空間に手をやっても、もう何にもぶつかることはなかった。

力なく手を伸ばしたまま、虚ろな目のまま、ぽつりと呟く。

「いなかったんだ、ぼくには初めから…母親、なんて……」

壁の中にわずかにまだ点滅している非常灯のようなランプは存在しているものの、 部屋を構成している機械はすべて稼働を停止しておりフィルは自分の手も見えないほどの真っ暗な空間に立ち尽くす。

自然と体から力が抜けて膝を折って床に座り込み、体をずらして転がった。

「……わ」

オクターブによるエネルギー供給を失ったせいかシステムがダウンしたのが原因か、部屋中が激しく揺れ始める。 ミシミシとかバキバキといった硬いものが折れたり砕けたりしている音が四方八方から聞こえてきて、 部屋が崩壊しようとしているんだということを悟った。

このままアイテール全体が崩壊するのだろうが、どれぐらいかかるのだろうか。 レックたちは無事に逃げられただろうか。「海」はもう消えているだろうから、 屋敷の外に出てくれてさえいればきっと助かるだろう。

自分がやるべきことは終わった、と目の前に置いてある軽く握った自分の手を見ながらフィルは苦笑した。

「できれば…親孝行がしたかったな…」

すっと目を閉じると、勝手に片目から涙が流れていく。近くの床に亀裂が入った音が聞こえてきても、フィルはもう目を開けることはしなかった。

―…しかし。

「おい、フィル!!返事しろ!!」
「?!」

このまま眠りにつこうとしたところで、頭に響いてきたあまりにも聞き慣れた声にフィルは身を強張らせて目を見開く。 驚きのあまり、思わず口に出して返事をした。

「え、なに…?レック?」
「今どこにいるんだ?!地面が崩れ始めてる、たぶんこのままだと全体が壊れて粉々になるぞ!」
「そうだろうね…アイテールの力の源だった、オクターブを封印したから…」
「じゃあローズマリーとの戦いにはカタがついたんだな!?途中までは花から聞こえてたんだけど、急に雑音だらけになって聞こえなくなって、 そしたら急にすごい揺れ始めて…」
「そうだったんだ…みんな無事?ローリエに会えた?」
「会えたよ、みんな無事だよ!!アッシュのマグノリアはみんなで地上に逃がした、もう立ってられないから俺はアッシュを 抱えて飛びながらアッシュのシフラベルでしゃべってる!俺のはフィルの体にくっついてる方にしか繋がらなかったから!」
「あはは…そっか、じゃあ呼びかけたらアッシュと話すことになっちゃったんだ?」
「そう、だけど……んなことはどーでもいいんだよ!フィル、逃げようとしてないだろ?!」

そう言われてフィルはむくりと起き上がって胡坐をかく。近くに折れた柱が倒れてきたようで、座った体勢のまま振動で体が少し浮いた。

「…だって、逃げられないよ。空の魔法を使った装置でこの部屋に移動してきたからもう出口がないし、 部屋の中は真っ暗だし。封をされた箱の中に入ってるようなものだもん」
「簡単に諦めるなよ!世界救ってカッコよく死ぬなんて許さないからな!!」

レックの声があまりに必死で泣きそうに聞こえて、フィルは思わず笑い出す。 どうせ逃げられないのならばみっともなく藻掻くよりも、いっそ潔く最期の瞬間を待とうと思っていたのに。 レックがあまりにもまくしたてるので、分かったよ、と手探りで床に手をつき、砕けて散らばっている柱の破片をよけてから立ち上がった。

「じゃあ、本当に最後の最後まで足掻いてみる。でも、今にも天井が崩れそうだから下敷きになっちゃったらさすがにレックも逃げてよ?」
「いいから、何か脱出するための手がかりを探せって!秘密の通路とか隠し階段とか!!」
「そんなの、あの人が作るかなあ…」

いざ脱出方法を探すとなると、怪我もなるべくしてはいけない。1秒でも早くここから、そしてこの屋敷から出る方法を見つけなければ。 そう思ってフィルは暗闇に慣れてきた目で少しでも光のある場所を必死に探す。

「あっちは確か、アリアたちが出ていった床があった場所…」

ローリエが座っていた機械の奥の真っ黒の空間の中に、光の粒が見えた。

「あ、あれって……うわ」

壁を構成していた機械がひしゃげてドーン、と落下してきたがフィルに直撃はせず、衝撃で下半分が潰れて破片が四散する。 ただでさえひっきりなしに揺れている床がさらに大きく揺れたが、フィルは恐怖してる場合じゃない、と薄っすらと見える光に目を凝らす。 そして、壁を手で伝って転ばないように崩れた壁によろよろと近づいていった。

砕けた金属の間に、紙のようなものが見える。何気なく上を見たら直径1メートルはあろうかという砕けた壁の一部が 頭上に落ちてこようとしていたので一度後ろに避けてドガーンとそれが床にめり込むのを見届け、それからもう一度壁を調べ始めた。

1つで何キロもある破片を掴んでは後ろに投げ、を繰り返していると壁の中に埋まっていた紙の先端が現れる。

「これ…ララの帽子の、リボン…?」

それを掴んでみるとリボンが金色に輝き、周囲の瓦礫がぶわっと吹き飛んだ。すると視界が開け、 上から光が僅かながら差し込んできたのを感じる。フィルはリボンを手で掴もうとしたが握っていてはよじ登ることができないので、 手首に一周させてから口で引っ張って結びつけた。

「よいしょ、よいしょ…狭いなあ…!!」

両手を壁に突っ張って、足をかけられそうなところを探しながら上へ上へと進んでいく。 屋敷の崩壊のせいでこの縦穴が縮んだり上から何か降ってきたりしたらそれこそおしまいだな、と思いながらも全力で登り続けた。

「ん…?」

上に行くにつれて穴が広くなっていて、両手で体を支えられなくなってしまった。 傾斜のある壁の方にもたれかかり、片足で壁を蹴る体勢で体を支える。ここからどうやって上がろうか、と考えて見上げると 角度からして広いだろうに遠すぎてもはや小さく見える穴のてっぺんに、見覚えのあるシルエットが逆光で作り出されていた。

小さな頭にのせられた大きな帽子、手が見えないほどの大きな服…。

「もしかしてあれって…ララ?!そこにいるの!?」
「ふぃーゆ!いーこね!ぐーいすーよ!!」
「ちょっ……うわあああああ!!」

突然、リボンで結んでいた腕が勢いよく引っ張られる。壁から覗く無数の金属片に体がぶつかりそうになるも、 軽い布のようなもので体が覆われているような感覚があり衝撃は全くなかった。

遠慮のない引き上げにフィルの体は一気に上昇し、ついにぽんっと光の中に放り出される。

「え、あ…え?」

宙を舞ったフィルの体はもう1本のリボンが巻き付くことによって空中でキャッチされた。 床を見ると満面の笑みのララシャルがフィルを見上げており、帽子を両手で押さえている。

壁も柱も窓も砕け、天井が今にも崩れ落ちそうなその大きな部屋はどこなのか咄嗟には判断ができなかった。

「ララ、お、下ろして!早く逃げないと!あ、助けてくれてありがとう!」
「こえをこやってー…」

フィルの声が聞こえているのかは分からなかったが、ララシャルはフィルを床に下ろしてリボンをするすると縮ませる。

「危ないっ!!」

ララシャルが両手を上げて何かをしようとしたとき、太い柱が半分に折れて倒れてきた。 フィルは素早くララシャルを抱えて転がり、二人の後ろに柱だった巨大な円柱状の石が突き刺さって床を砕く。

いよいよ口を開けていると舌を噛みそうなほどの揺れが起こり、天井の亀裂がさらに大きくなってきた。 ついに床が深く割れ始め、立っていられなくなってまだ無事な床の方へフィルはララシャルを抱えて走り始める。

「ララ、ここはどこか分かる?!外に出られる方向は…!!」
「ふぃーゆ、あーち」
「あっ…!」

遠くで天井が崩れ落ち、その重みで壁が砕けた。そこからわずかに外の景色が見えて、フィルは夢中でそこへ向かって駆ける。 ララシャルもリボンを伸ばして片方で床を押し、もう片方を柱に巻き付けて引っ張り、フィルはまるで飛んでいるかのように 一瞬で壁の隙間に滑り込んでいった。

「フィル!!」

フィルが壁の外に抜けると待機していたレックがすぐさまその姿を見つけ、高速で飛んできてアッシュを左手で掴んだまま右手をフィルに伸ばす。 フィルがレックの手を掴んだと同時に屋敷の土台も崩れ、ついには屋敷全体が崩壊して轟音を立てながら落下し始めた。

「ちょっ、どこか降りるところ、なんて…ないか…!」
「レック、ありがと…だ、大丈夫…?」

レックは背にファシールをのせて、両手でフィルとアッシュを掴み、さらにフィルの体にはララシャルがリボンを巻き付けてくっついている。 魔法力で浮力が補われているとはいえさすがに自分を含んだ4人を支えて飛ぶのは辛そうだった。

そのとき、ララシャルが帽子を片手で少し浮かせて中から何かを取り出す。

「ふぃーゆ、こえ!こっち!」
「えっ?」

フィルの体からララシャルが離れて驚いたが、見下ろすとララシャルが大きな丸い宝石に乗って浮かんでいた。 シャープが持っていたはずの光の盾エールをララシャルが発動させたようで、二つの石のうちの片方に乗っている。 ララシャルは手を振って近くに浮かぶもう片方の月の形の台座にはまった石の方に乗るようにフィルを促した。

「それ、乗れるの…ララシャルも使えるの…?」

もう何なんだ、と思いながらもレックに負担をかけるわけにはいかないので大人しくエールの上に移動する。

そうこうしている間にも、背後ではアイテールの広大な大地と森や岩山や建物が崩れ落ちて海へ向かっていた。 もう誰もいないだろうかとフィルは心配になったが、もし誰かが見えたとしても自分には今助けに行けないのであえてそこから視線を逸らす。

「…アッシュ」
「……」

先ほどからずっと、レックとシフラベルで会話している間もずっと、一言もしゃべらなかったアッシュにフィルは呼びかけた。 レックと両手を掴み合っているのでフィルの方を向いてはいるが、フィルと目を合わせようとはしない。

フィルは面白がってレックに手招きをして近づいてもらい、アッシュに手を伸ばした。

「やっと直接しゃべれるね。こっち向いてよ、アッシュ」
「……うるさい」
「やだー、照れてるんだ?ねえってば……あっ?!」
「えっ…?!」

さらに身を乗り出したフィルがアッシュの腕に触れた瞬間、二人は同時に声を上げる。 お互いに何が起こったのか分からなかったが、フィルの目の前にはアッシュが、アッシュの目の前にはフィルがいた。

そして、フィルの姿をしたフィルがレックの手の下で急にもがいて暴れ始める。

「い゛っ、いたたたたたた!!痛い〜!!なにこれ!!すごく痛いんだけど!?」
「な、なんだ!?アッシュ?あれ、フィル?何が起きた??」

エールの上に乗っているアッシュの姿をしたアッシュが、ぷいっと顔を背けた。

「俺たちが直接触れたから、入れ替わっていた体が元に戻ったみたいだな」
「オクターブを封印したから…!?そっ、そんなことより、ねえ!もんのすごくお腹が痛いんだけど!!」
「…そりゃ、一度腹に穴が開いたからな」
「え、マジかよ。フィル、そんな痛い?」
「い、痛い…傷口がハッキリ分かるぐらいに痛い…死んじゃうよ〜、レック、何とかして…」

消え入りそうな声で訴えてくるフィルは気の毒だったが、そんな痛みを抱えたまま動き回ってマグノリアを探したり 大声で呼んだりしていたアッシュの姿を思い出してレックは眉を顰める。

「アッシュ…無理してたんだな」
「…俺は痛みに慣れてる」
「慣れるもんじゃないだろ…」

可哀想に、と思ったがそれは言わないでおいた。それよりも痛い痛いとフィルが手をぎゅうぎゅう握って訴えてくるので はいはい、と下に向かって呼びかける。

「大声出すな、傷が開くぞ。飛んでる状態じゃ治せないし」
「そんな〜…」
「おいアシュリィ、なんだこの髪は」

久々に戻った自分の体の違和感に、アッシュはすぐに気づいた。後ろ髪の半分がざっくりと切れていて存在していないのである。

「さ、最後に攻撃を避けた時に切られちゃったみたい…ごめん。いや、戻れると思ってなかったし…」
「……」

アッシュは至極不満そうに自分の髪を手の甲で持ち上げ、その短さに内心落ち込んでいた。 左右で全く違う髪の長さに、レックもあららと首をかしげる。

「それは一旦切りそろえないとダメだな〜…いいじゃん、すぐ伸びるだろ」
「手も怪我してる」
「部屋から逃げるときに、瓦礫どけたりよじ登ったりしたから…」
「それなら怪我はお互い様だな。お前も我慢しろ」
「ぼっ、ぼくの方が絶対に痛いって!!………ぅわっ」
「……」
「あー、きーさんー」

ひときわ大きな音が周囲の空気を震わせた。アイテールの地面の上のものがすべて崩れ落ちた後、 その大地の岩盤とそれにしっかり根ざしていた大きな木の幹から根にかけてが半分に割れて 金色の光をまき散らしながら落ちていく。

遥か下の海にはひっきりなしに白い水しぶきが上がってアイテールを構成していたものが沈んでいき、それを全員で無言で見つめる。

フィルはあの部屋に置いてきたオラトリオとオクターブはどの辺りに沈んだのだろうとふと考えた。 あまりにも膨大な数の瓦礫の中に埋もれているだろうから、もう二度と人の目に触れることはないだろうし 自分を含め、その封印を解ける人もいない。そう思うと少しだけ切なくなる。

海の水面には大きな波紋と泡がいくつも上がり続けているが、目の前の空間はほかの空と何も変わらない。 この場所に、地上のような国が浮いていたということが、まるで夢のようだった。

「…本当に、終わったんだ。……みんな、帰ろう」

フィルの言葉に、レックはくるりと向きを変えてアッシュに手を伸ばす。 ララシャルが帽子のリボンを伸ばしてレックの腕に巻き付けることによってララシャルの魔法力も飛行を助けることとなり、 4人は夕日に背を向けて飛んでいった。


    






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