レックはベルの言葉を反芻して首を傾げる。ベルはファシールが守っていた扉の左にある大きな柱に向かって歩いていった。 その様子を見て、なぜかフィルは不安そうにしている。

「アッシュへの体罰以外にも、非公開のマグノリアの処刑にも使われたらしいよ。アイテールを覆う「海」に向かって落とされ、粉々に砕け散り… 砂よりも細かくなって、「海の霧」、つまり…「ローズマリー」にされて」
「え、ちょっと…」

色々とショッキングな単語がベルの口から語られ、レックはおろおろしながら部屋を見回した。 体罰って、それに海の霧って?レックの頭はまだ処理しきれていなかったが、ベルは柱に片手を置いた。

「わっ…?!」

突然、ベルとレックの間の床が小刻みに震え出す。大きな円を光の線が描いたかと思うと、その部分の床がブロックごとに すっと消滅した。

「え、なに…?」

巨大な穴が開いた床からは外の光が差込み、強い風が吹き込んでくる。その穴の近くに立ったベルの服や髪がばさばさと激しく風に揺らされた。 風にあおられてよろけそうになったレックは片手で髪を顔から払い、何をする気だとベルに駆け寄ろうとした。

しかし突然、床からの風よりもさらに強い風がファシールから巻き起こってレックとフィルに吹きつけ、二人は後ろに転がる。

「うわっ!!」
「い、いたた…」

その様子を、ベルは無感情に見つめていた。風を起こしたファシールは前に出されていたベルの手の上を飛び始める。

「お、おい、何するんだよ…!?」
「…もう俺にはさ、フィーネに会う資格すらなかったんだよな」
「はっ…?」

そう言ってベルは右手に持っていた剣を穴の横に放り投げた。ガシャン、と床にぶつかった剣はしばらく硬い音を立てながら揺れていた。

「フィーネを求めていながら…あの、魔女のユーフォルビア…あの人の、最愛の存在を俺は殺してしまった。そんなことをした俺には 愛する者に会おうとする権利もないし、俺の居場所だって、もうどこにもないんだよ」
「そんな…」

素早くレックは立ち上がり、ベルに向かって必死に叫ぶ。

「そんなことない!失われた命は戻らないけど…二人で謝りに行こう、俺もベルの罪を一緒に背負うよ。 許してもらえなくても…ベルを悪く言う人がいたとしても…俺はずっと、ベルの友達でいるから!!」
「レック…」

レックの言葉を聞いたベルは、辛そうに片手で顔を覆った。その声は、泣いているようだった。

「お前、な…ほんとに…」
「諦めるなよ。フィーネにだってきっと会える。生きてさえいれば、きっと方法はあるよ」
「……」

ベルは顔に手をやって俯いたまま、涙声になるのを堪えようと苦しそうに息を吐き出す。

「…こんなことになったのは…俺が弱かったせいなんだ。俺の…心が、弱かったんだよ」

片手を払うように揺らすと、ファシールはそれに合わせてレックの方へ飛び始めた。

「怖かったんだ。フィーネ以外の誰かが、フィーネ以上の存在になるのが…フィーネを大切に思わなくなるかもしれない自分が、怖かった…」
「……」
「レックは悪くない、俺が臆病だっただけ。俺の友達として、かなりいい線いってたよ、レック。…フィーネと同じぐらい、かな」
「おい…!」

ベルは全く陰りのない清々しい笑顔をレックに向ける。何も隠すところがなく、心から笑っているようだった。 レックが走り出したと同時に、ベルの体がゆっくりと傾く。

「……ごめんな」
「ベル!!」

吹き込んでくる風の中に、差し込んでくる光の中にベルの体は消えていった。レックは全力で駆け寄り手を伸ばしたが、届かなかった。

「レック、危ない!!」

今にも自分も飛び込んでいきそうなレックの腕をフィルは必死に掴んで引き止める。穴の淵に二人で倒れ込んだが、 レックは素早く体を起こして床の下に身を乗り出した。しかし、遥か下に本当の「海」がある以外は何も見えなかった。

「わっ…!」

床に穴が開いたときと同じような振動を感じ、二人は声を上げる。空間が白く光ったかと思うと穴が見る見るうちに塞がっていき、 やがてその光が収まるともう他の床と違いが分からないほどになっていた。

「……」

レックは無意識にベルが飛び込んだ穴があった床を撫でる。

「ずっと辛かったんだろうな…俺が追い討ちかけて、追い詰めたようなもんだけど…」
「そんなことないよ」

床にへたり込んでいるレックを見下ろしながらフィルは首を振った。

「ベルはレックのせいじゃないって言ってたじゃない。レックはできるだけのことをしたよ」
「………」

フィルの言葉に、レックは少し目を丸くしつつも顔を上げずに小さく そうかな、と呟く。

「そうだよ。レックはベルを追い詰めたんじゃない、救ったんだ。…あとは、ベルが行動を選んだだけだよ」
「…ふふっ」

床を見つめたままレックは思わず苦笑した。なんで笑うの、とフィルは首を傾げる。 レックは勢いよく立ち上がり、そしてフィルの肩に腕を回した。

「言うようになったな。ありがとう、今は落ち込んでる場合じゃないよな。悩むのも悲しむのも全部後回しにするよ」
「…どっちもしないでほしいけど…」
「先に進むべきだよな、まだ何も終わってないんだ。行こう」
「うん…」

ぱっ、とレックはフィルから離れて足元を見渡す。そこにはベルからの魔法力の供給を失って羽が消えた状態で転がっているファシールと、ベルが捨てた剣「ブランシュ」が落ちていた。 レックは剣を拾い、フィルに振り返ってほいっと手渡す。

「…ベルの剣だ、使わせてもらおうぜ。フィル、いつもの剣持ってきてないだろ?」
「あ、えっと…うん…」

白い剣の柄を自分の方に向けられたのでフィルはそれを受け取り、持ってみてあまりに軽い剣だったので驚いた。 フィルが剣の感触を確かめている間に、レックはしゃがみ込んでファシールを拾い上げる。

「…わ」

手の上にのせたファシールは光と羽を取り戻して羽ばたいてふわりと浮かんだ。レックが意識して指を差す方向にファシールは忠実に飛んでいく。 くるくると指を回せばその通りに飛び回った。

「確か、ベルはこれを背に乗せて…あ、できた」

自分の背を指差し、ファシールを自分の背後に回らせるとファシールの羽ばたきに連動してレックの体が浮かび上がる。

「すごい、レック…もうコツを掴んじゃったの?」
「ベルのを見てたからなあ…うん、まあまあ思った通りに飛べるな。……ん?なんだあれ」

もう一つ、床に落ちているものを見つけてレックは飛んでいたフィルの背より少し高い位置から降下してきた。 そして、柱の傍に落ちていた大きなコインのようなものを拾い上げる。

「これ、どこかで見たような…」
「なに?金属製だね…何かのフタじゃない?でも、何でこんなところに…」
「……」

レックは少し考えた後、それをポケットに仕舞った。そして、改めて大きな扉を見つめる。

「…フィルのサポートをするつもりでついてきたんだけど、結局フィルに励ましてもらっちゃったな」
「そんなことないよ、ぼく一人だったら絶対にベルを止められなかっただろうし、ベルに勝つことも出来なかったと思う…」
「それは…どうだろうな。でも、俺たちは絶対に勝たないといけない」

うん、とフィルは大きく頷いた。

「多分…この先にいるのは、アッシュだろう。そいつがどう出てくるかは分からないけど、俺は諦めてないからな」
「アッシュを…救うこと?」
「そう。カミサマの…ローズマリーの野望を食い止めて、フィルも、アッシュも、みんなで帰るんだよ。分かったか?」
「…さっき、ちょっと諦めたくせに?」

フィルがからかうように上目遣いに言う。レックはばつが悪そうにくしゃくしゃと自分の髪をかき混ぜた。

「あー、それは謝っただろ!でも、フィルが諦めるってことは世界を諦めるってことだ。フィル一人の責任ってワケじゃないけど…」
「うん、分かってる。みんなの時間を、なかったことになんてしたくないよ。ローズマリーの思い通りになんて、絶対にさせない」
「よーし」

フィルの赤い瞳は決意に満ちており、それを感じ取ったレックは扉に向かってフィルの背を押す。 レックはファシールを連れて剣にいつでも手をかけられるように鞘を掴み、フィルは右手にオラトリオ、左手にブランシュを持って歩き出した。






「ローズマリー、二人のお姫様を至高の間にお連れしたよ」
「ご苦労様。…もう一人の、おちびさんはどうしたの?」
「あの方は、シャープ姫と同じ牢に入ってもらってる。まもなくアッシュがオラトリオを持ってくるだろうから…いよいよ、だね」
「ええ…だけど、どうも気になることがあるのよね…」
「ああ…内容不明の電波…だっけ?」
「そう。どこから発せられているのかも不明…屋敷内にセンサーは不要だから設置してないけど、 アイテールを行き来するものだけはキャッチするようにしているから海を通り抜けて何度か飛んでいるというデータが残っているの。 そして、今は海からは1件も確認できてない…タイミング的に、やはりあの王子様の仕業かしらねえ…見苦しい悪あがきだった、というところかしら」
「そうなのかもしれないね…」
「……ねえ、ローリエ」
「なに?」
「今日は奇しくも、アンサンブルの日…異世界にメルディナが最も近づく日。未来の記憶が永世遡行を行う空間に存在していてはいけないけど、 望むのであれば、旅立つことを許すわ。あなたの時の力を解放し、逃がしてあげてもいい…もしかしたらそこは、あなたがいた世界かもしれない」
「………」
「………」
「……いいえ。ぼくは一生あなたに仕えると決めたんだ。今更どこへ行く気もないよ」
「私が許可をしているのよ?」
「ぼくは十分すぎるほど生きたよ。数えることを途中でやめたぐらい。…ぼくに生きる意味をくれてありがとう、ローズマリー」
「………そう」






大きく重い扉をフィルとレックは始めは手で、それでも開かないので体全体で押して開いた。 二人が通り抜けられるほど開いたところですり抜けるように中に入り、フィルはオラトリオをしっかりと握り締める。 後ろで扉が閉まる音がすると同時に、目の前の光景に二人は思わず声を上げた。

「わ……」
「ここ、部屋の中…だよな…?」

先ほどの「神託の間」の無機質な印象とはうってかわって、まるで庭園のような、花畑のような景色が広がっている。 床には土があるのか定かではないが、一面に細かい緑の葉と白や桃色の花が咲いていた。少し足を動かすだけで花びらがふわっと舞い上がる。

それに気を取られていた二人だったが、自分たちが立てる音とは別の足音が聞こえてきてそちらに視線をやった。

「神の間へようこそ…アシュリィ」
「……!」
「アッシュ…!!」

聞こえてきた声の主は、アッシュだった。肩まであるフィルと同じ薄い灰色の髪を手の甲で払いながら近づいてくる。

「直接、顔を合わせるのは初めてだな。…これで、最後になるだろうが」
「おい、待てよアッシュ!俺とは直接会ったことがあるだろ?ろくにしゃべれなかったけど…俺たちは戦いに来たんじゃない、アッシュを救いに来たんだ」
「……」

レックの言葉に反応し、アッシュは少し顔を上げて立ち止まった。左手には、恐ろしいほどに均整の取れた青い柄の剣「ジュスト」を持っている。 レックはフィルを背後にかばいながら、その攻撃範囲内に入らないように間合いを取った。

「救うだと?…救いは、我が神によってもたらされる。メルディナをテラメリタに変えることこそ、全ての生き物にとっての最高の救いだ」
「違う、存在を否定することによって生み出される平和なんて本物じゃない!ローズマリーがやろうとしていることは間違ってる!!」
「…その言葉、全て神に届いている。神を侮辱することは許さない」
「こんだけ花があればそうだろうよ。でも、譲ることなんて絶対に出来ない…それならアッシュ、お前には大人しくしててもらうだけだ。必ず一本とってやる」
「……」

レックは剣を抜き、アッシュの剣に向ける。剣をはじき、降参させるつもりなんだと分かったフィルは待って、とレックの前に出た。

「レック…ぼくが、行くよ」
「フィル…!?」
「さっき、レックが戦ってくれたでしょ。今度はぼくが頑張る番だよ」
「でも…」

お前に何かあったらオラトリオを使える人がいなくなる、大丈夫なのかと尋ねたかったが、レックに反論の猶予を与えずにフィルはアッシュに向かって剣を構える。 そしてアッシュと向かい合ったまま、オラトリオを後ろに差し出した。

「レックが持ってて」
「お、おう…」

レックはそれを左手で受け取り、後ずさる。足元に柔らかく花が浮き上がってはまた葉の間に収まっていった。

「まさか、俺に勝てるつもりでいるのか?アシュリィ」
「正しいことを為そうという想いが負けるわけがない。…参った、って言わせてみせるよ、アッシュ」
「…いいだろう」

アッシュがそう言うのを合図に、二人は同時に間合いをつめて斬りかかる。二つの剣の刃が、ガキン、という鋭い音を立てた。

「うう…!」
「くっ…」

フィルは両手で持った柄を ぐぐ、と全力でアッシュに向かって押し返す。それをアッシュは横へなぎ払い距離を取ったのでフィルも後ろへ素早く下がった。

「大丈夫かよ…」

再びお互いに駆け寄って斬り合いはじめた二人を、レックはオラトリオを両手で握り締めてはらはらしながら見ている。 足元から頭の近くまで花が舞い上がっており、滑らないかな転ばないかなとただ心配だった。

フィルはアッシュの手元を狙って剣を打ち上げようとするがアッシュはそれをギリギリでかわしてさらに後方へ床に一度手をついて飛び退く。 即座に体勢を立て直したアッシュはフィルと同じように剣を落とさせようと剣の柄を突こうとしたがフィルは身を翻して避けた。

まるで演武が繰り広げられているかのようだが、二人の目は本気だった。

「なかなかやるな」
「…アッシュこそ。せっかく会えたのに、いきなり戦わないといけないなんて残念だよ」
「アシュリィが地上に落とされてから、全ては決まっていたことだ。今更嘆くこともない」
「ということはさ」

フィルは剣を振り上げながら、何気ない様子で続ける。

「ローズマリーは、地上で育てられた方が自分に敵対することになるって、分かってたんだよね。自分が悪だって自覚してるんだ?」

振り下ろされた剣を横にした刃で受け止めたアッシュはフィルの言葉に目を細めた。

「それは人間の見地だろう。神の考えを理解できるはずもない」
「アッシュは納得してるの?」
「神の言葉は絶対だ、疑問を抱く必要はない!!」

強い力で剣を押し返され、フィルは後ろによろめく。体勢を立て直すために踏みしめた床から、白い花びらが舞った。 次はどう踏み込むか、と考えながら横へ回ると遠くに二人を不安そうに見守っているレックの姿が視界に入る。

「よし…!」

フィルは両手で剣を強く握り、アッシュへ向かって駆け出した。体勢を低くして下段から来ると見せかけて、防御のために出されるであろう剣を軽く払い、 素早く切り返して剣を弾かれバランスを崩しているアッシュの手に狙いを定めて…と、頭の中で構築した攻め込みを巡らせてアッシュのリーチ内に踏み込む。

「えっ…!?」
「あ…!!」

アッシュの傍まで駆け寄り、低い位置から出される剣を防ごうと出されたアッシュの剣をフィルは横に振り払ったが、その一撃によってアッシュの剣は遠くへ弾かれた。 高い金属音が辺りに響いたかと思うと、その青い剣は高く打ち上げられてやがてフィルの背後の床へ勢いよく突き刺さる。

あまりにあっさりと武器を落とせたことにフィルは驚いたが、アッシュはフィルではなくその後ろを見て動揺していた。

「アッシュ…?」
「あらら、勝負あったかしら。それとも私が見ていることに気づいて驚かせちゃったかしら?アッシュ」

その声に、アッシュを見つめていたフィルは まさか、と思いながらゆっくりと振り返る。 いつの間にこの部屋にやってきていたのか、ローズマリーが刺さった剣の前で笑っていた。 アッシュは青ざめて、動揺しきった様子で恐る恐る口を開く。

「も…申し訳ありません、神よ…」

そのアッシュの言葉を気にする様子もなく、ローズマリーはアッシュとフィルに順番に視線をやった。

「二人の戦いは見ていたのだけれど…少し話をしようと思い立ったのよ。アシュリィ?」

不気味な笑顔を向けられフィルは嫌悪感のせいか身震いしたが、ローズマリーはどこか嬉しそうに続ける。

「あなたを地上に落としたときは、まだあなたに時の力が受け継がれているのか、それが発現するのかは分からなかったの。 それでも、ある程度まで教育してから落としていたんじゃ非効率的だから…生まれた時点で落とすことにしたのよ。 まあ…数え切れないほど、「海」にぶつかって粉々になってしまったけれどね?」

うふふ、と笑って肩を揺らすローズマリーを、その場にいた全員が身動きせずに見つめていた。 フィルは緊張のあまりか僅かに震え出した左手を剣を持った右手でそっと押さえる。

「ともあれ…アシュリィ、あなたは私の手を離れても、人間の思想に染まりきってしまった以外は立派に育ってくれたわ。 剣術に長け、何よりも時の鍵オラトリオを使いこなせる素質を持っている。私の言いたいことは分かるでしょう? …神の傍で仕えなさい。テラメリタとなったメルディナで、あなたにはアッシュと同等の地位をあげるわ。私に永遠の忠誠を誓うならば その命を助けてあげる…」
「そんな話にぼくが耳を貸すとでも思ってるの!?」

ローズマリーが言い終わらないうちに、フィルは叫んだ。レックもアッシュも驚いて大声を上げたフィルを見る。

「身勝手な理由で「アシュリィ」を何度も殺して利用して…あなたに正義なんてないし、メルディナを蹂躙する権利だってない。 テラメリタなんてただの欺瞞と空想だよ、未来は自分たちの力で作っていくべきなんだから!」
「そこまで言うなら、仕方ないわね」

今度はフィルが言い終わらないうちにローズマリーが素早く動いた。床に刺さっていた剣を引き抜き、目にも留まらぬ速さでフィルに接近する。

「なっ…」

フィルの視界にローズマリーの赤い目が迫ったかと思うと、突然体中に大きな衝撃が走った。

「……!!」

ローズマリーの髪や服が遅れてふわりと揺れる。咄嗟に何が起こったのか分からないほど一瞬の出来事だったが、フィルの腹にはローズマリーが持った剣が深々と突き刺さっていた。

「ぐっ……」

剣を引き抜かれ、フィルは後ろに倒れこむ。力の抜けたフィルの手から剣が落ち、大量の花と軽い葉がフィルの体の周りにぶわっと舞い上がった。

「フィルッ!!」

レックは一目散にフィルに駆け寄る。剣を鞘に仕舞う余裕もなく、オラトリオを床に放り出して走った。

「おい…!!」

剣を足元に転がしてフィルを抱え起こす。フィルは腹を手で押さえており、黄色の服が見る見るうちに赤く染まっていっていた。 フィルはうっすらと目を開いたが、その目はレックではなくローズマリーを見上げている。

「ローズ…マリー…」
「急所は外しておいてあげたわ、しっかりと時間をかけて苦しんでから死ぬことね。助かりはしないでしょうから」

ローズマリーが振り下ろした剣の刃からは血が滴っていた。汚れちゃったわね、と言いながらそれをアッシュに放り投げる。 フィルを見下ろしていたアッシュはローズマリーの声に反応して自分に投げられた剣の柄の動きを目で追い、片手でそれを空中で掴んだ。

「神への反逆の罰は当然、死よね。喜びなさい、神が自ら手を下してあげたんだから。「ハズレ」よりも何よりも最悪の失敗作だわあ… カイ王子様の教育もたいしたものね」
「…ぼくは…後悔なんて、してない…間違ってるのは、あなたの方、だ…よ…」
「フィル、しゃべるなって!!」

ごほっ、と咳き込むフィルの口から鮮血が溢れ、レックはなんとかフィルをしゃべらせまいと叫ぶ。 また攻撃が来たときのためにフィルに手を添えながらもレックは一応身構えていたが、ローズマリーはフィルの言葉を気にすることなく薄ら笑いを浮かべるだけだった。

「ふふ、神に間違いなどあり得ないの。…それももうすぐ分かるわ。アッシュ、オラトリオを持っていらっしゃい」
「かしこまりました…」

アッシュはオラトリオが落ちている場所までつかつかと歩いていき、左の手でしっかりと握る。レックはそれを目で追っていたが、 出血が止まらないフィルを何とかしなければということで精一杯で、どうすることも出来なかった。 アッシュはローズマリーの傍まで歩いていき、ローズマリーは満足そうにアッシュを見つめて頷く。

「結構。…やっと、オラトリオとオクターブが揃った…メルディナがテラメリタになる時が、ついに来たのね…アシュリィ、あなたは間もなく死ぬでしょうけれど、 安心なさい。それすらも全てはじめからなかったことになるのよ。地上で生きた人間は、全ていなかったことになる…その素晴らしき神の所業を、 そこで見ていることね。もう誰にも止めることはできないわ…ふふふ…」

ローズマリーは後ろに下がり、アッシュもそれに続いた。すると、二人が立っている床の花模様が輝き出して光の柱を作り出して 強い光の中にいる二人の姿は影だけになる。

「あっ…!」

光が収まると、ローズマリーとアッシュはその空間から消滅していた。

「だからこの部屋、扉が一つしかなかったのか…」

いつの間にかローズマリーはこの部屋にいたが、ここは元から魔法の力で別の部屋につながっていたんだとレックは判断する。 そして、それよりもフィルを助けなければ、とレックは落ち着くために息を吐き出した。

「レッ…ク…」
「しゃべらなくていい。とにかく…逃げるぞ」
「え……?」

レックは剣を鞘にしまって、ファシールに人差し指を向ける。自分の背にファシールを誘導して止まらせて、フィルの体をそっと抱き上げた。 ファシールの力のせいか、体にかかるはずの重力が減って体中に走る激痛に顔をしかめていたフィルは少しだけ目を開ける。

出血のせいで目はかすんでいたが、レックの全く諦めている様子のない真剣な眼差しが視界に入りフィルは一瞬痛みを忘れた。

「(逃げる……どこへ?…なんで…?)」


    






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