「わっ!!」

あまりに早い身のこなしで近づかれ、レックはヴァイオレットの一撃を剣で弾くのがやっとだった。 バキン、と高い音が響いてお互いに衝撃で後ずさる。

再びヴァイオレットは体勢を低くしてレックに向かって駆けていき右手を大きく振り下ろしたが、その衝撃は受け止めようとした レックの剣に伝わることはなかった。

「うわ、カリン…!!」

カリンが横から逆手に持った凍結の牙でヴァイオレットの攻撃を防いでいた。 ヴァイオレットは手に込めていた力を抜くと同時にまた後ろへ下がる。

「……」

カリンは凍結の牙を持った手を前にかざしながらヴァイオレットと相対したまま対角線上にゆっくりと移動する。 カリンの靴が石の地面と擦れて ざりっと音を立てた。

どうしたらいいんだろう、とレックは思いながらもヴァイオレットが自分にまた向かってきたときのために剣を構えたままカリンの後姿を見つめる。 そうしているうちに、レックの目の前の二人は呼吸を整えて同時に床を蹴った。

「あっ…?!」

カリンとヴァイオレットがお互いに攻撃を仕掛けたと思ったが、そこから響いてきた音はナイフがぶつかったときのものではなかった。 レックの足元へ、カランカラン、と音を立てて凍結の牙が転がってくる。

「か、カリン!!」

カリンは自ら凍結の牙を放って、ヴァイオレットの前に両手を広げて立ちふさがっていた。 カリンの左肩にはヴァイオレットが刺した凍結の牙が突き刺さっていて、そこから見る見るうちにカリンの体は凍りつき始めている。

そこに視線を落として確認してから、カリンはヴァイオレットの両頬を挟むように両手で思い切りばちーん、と叩いた。

「ヴィオ、いい加減目を覚まして!!」
「……!?」

頬に走った痛みに、ヴァイオレットは大きく開いた目をさらに丸くする。目の前にいるカリンに気づいて、カリンの両手を掴んでぽいっと下に投げて叫んだ、

「いったぁ!!痛いじゃないの!!何するのよ、カリン!!」
「も、戻った…!」

ヴァイオレットは怒りに任せて怒鳴っているが、カリンはその様子を見て至極嬉しそうにヴァイオレットの両手を握り締める。 何が起きたか分からない様子のヴァイオレットだったが、パキパキ、とカリンの体が凍りつく音に気づいた。

「ちょっと…カリン、凍って…まさか…私が…!?」
「私のせいで、こんなことをさせてしまってごめんなさい。でも私は満足よ。大事な人たちを守れた」

どうしてこんなことに、と焦りながらもヴァイオレットはなんとかしてカリンが凍っていくのを止めようとするが、 一度始まった凍結はもう止まらず氷のように硬くなっていくという変化は範囲が広がるばかりである。 バランスが取れなくなり倒れ掛かってきたカリンの体を受け止めようとヴァイオレットが手を伸ばしたとき、後ろから足音と声が聞こえてきた。

「お、おいっ…!」

レックが剣を床に投げるように置いて走り寄り、カリンの両肩を支える。感覚でそれに気づいたカリンは振り返り、嬉しそうにレックを見上げた。

「ねえ、レック…助けたいって思うのが、人間なら当然なんでしょう?そう思えた私は…人間なんだよね」
「……!!」

カリンの腕が、背が、どんどん凍っていく。何か言わなければ、とレックは泣くのを堪えて何度も頷いた。

「…そうだよ。自分を信じてくれてありがとうな。カリンは人間でもなかなかできないことをやり遂げたんだ。すごいぞ」
「うん……」

カリンは手をレックに伸ばそうとしたが、縛り付けられているかのようにもう腕は動かせなかった。 レックに伝わってくる皮膚の感覚が、容赦なく冷たくなっていく。レックはカリンの硬く氷のようになってしまった体を全力で抱き締めた。

「カリン…!!」
「…レックに会えて、よかった……あのね…わた…し……」

ついに首から頭までが完全に凍りつき、辺りにバキン、というガラスが割れたような音が響いて、カリンは動かなくなった。 レックに支えられているカリンをヴァイオレットは見ていられなかったが、その音に反応して顔を覆っていた手をそっと離す。

「……」

項垂れたままのレックの頭と、レックの腕の中のカリンを辛そうに見つめ、そして重いため息をついて視線を逸らした。

「…ごめんなさいね。私のせいで…」

そう言うヴァイオレットに、全員何も言えなかった。ランですら空気を読んでか何も言わないでいたが、ついに口を開いたのはレンだった。

「こうなることは誰にも止められなかっただろうから、仕方ないよ。カリンはヴィオの凍結の牙を自分で消費させることで、 しばらくの間のレグルスの安全を確保しようとしたんだ」
「え…」

つかつかと歩いてきたレンはカリンの顔を覗き込んで、そしてしゃがんでいるレックを見下ろす。

「凍結の牙は一度出すと、次に出せるまではかなりの時間がかかる。非常に強力なものだから…ぼくも、回復するのに数日はかかった。 ヴィオの凍結の牙を消費させると同時にヴィオを正気に戻せたのは、僥倖だったね」
「レン…アンタね…」

相変わらずの物言いなんだから、とヴァイオレットは腕組みしてレンをじとっと見下ろした。

「私はここに来るまでの記憶が全然ないのよ。大方、神様に好き勝手動かされてたんでしょうけど…またいつそうなるか分からないし、 癒しの司がいない今、神様が誰かを差し向けてくるかもしれない。アッシュ様が…いらっしゃるかもしれないし。私がこうして話していられるのもいつまでか分からないのよ」
「そう。それじゃあヴィオはこれからどうするつもり?」
「…カリンを元に戻す方法を探す…いえ、試してみるわ」
「元に戻す方法?」

そんなものがあるのか、とレックは期待して聞き返す。

「ええ…でも、あなたたちじゃ私を傷つけてもすぐに治ってしまうだけで意味がないから…自分の力で、なんとかしてみるわ。 凍結の牙を刺した者が息絶えれば、再び時は動き出すから。それまで、そのカリンの体を大事にしときなさいよ」
「え……息絶え…って、ちょっと、待てよ!!」

レックはヴァイオレットが言っている意味を理解して青ざめ、止めようとして叫んだがヴァイオレットは ひょいっと塔の淵に飛び乗ってしまった。

「おいっ!レンはそんなことしなくても溶けたぞ…た、多分!どこに行く気なんだよ!!」
「私を心配してくれるの?ありがとね。でももういいの、こんなことしたんじゃカリンに顔向けできないもの。 神様の手駒にされている以上、私がいなくなることが何よりもいい解決法なのよ。…それじゃ、ね」
「そんな…待てってば!!」

塔の外で待機していた巨大な魚のマグノリアに飛び乗ったヴァイオレットはマグノリアに指示を出して あっという間に海の上を飛び去っていった。マグノリアが起こした風が塔の頂上に強く吹き付ける。 レンも片手を伸ばして自分のマグノリアを呼びながら駆け寄ったが、あまりのスピードに目がついていかずヴァイオレットの姿を見失ってしまった。

「…どうしよう…」

そっとカリンを床に横たわらせて、レックはため息をつく。カリンは幸せそうな表情のまま凍っており、まるで眠っているようだった。






「今日のお加減はいかがですか」

柔らかい日差しが差し込む部屋の中に、青年の声が響く。聞こえる音はそれきりで、声に対する反応は一切ない。 呼びかけは、テーブルの前に置かれた椅子に腰掛けているシャープに向けられたローリエからのものだったが、 シャープはぴくりとも動かずに窓の外に顔を向けている。

「…ねえ。今日はビスケットが綺麗に焼けたんだ。どうぞ、召し上がれ」

そう言いながらローリエがテーブルにお菓子が入ったカゴを置いた。その隣にはティーカップも並べられ、 そこへ透き通った紅茶が注がれていく。はい、とカップを差し出されても、そのままじっとローリエが待っていても、シャープからの反応は一切なかった。

「……ごめんね」

メイプルに凍らされかけ、ローズマリーによってメイプルが目の前で殺される光景を目の当たりにし、 シャープは両耳をきつく押さえて泣きながらも目を強く瞑って何も聞き入れず何にも答えない時間が続いた。

ローリエはその状態のシャープを心配しつつも今までどおりの世話を続けていたのだが、 急にシャープは完全に表情をなくし、泣くことも笑うこともせずローリエの声に全く返事することもなく 視線を動かすことすらしなくなってしまったのだった。

部屋を訪ねる者もおらず、シャープは何も映していない赤い瞳でただ窓の外を見つめるだけの時間を過ごしている。

「こんなことになってしまうなんて…」

ローリエはいつもの微笑はたたえてはいるもののどこか辛そうにそう言った。そしてシャープの向かいの席にもう一つ紅茶を入れ始める。

「シャープ姫…もう、ぼくの言葉なんて聞こえていないと思うけれど…ずるい言い方をさせてね。 ぼくなんかが、同じテープルについてもいいでしょうか。嫌だったら、言ってください。そうじゃないなら、何も言わないで」

シャープの頭に向かってそう尋ねてみたが、当然ながら何の反応もなかった。 ローリエはゆっくりと椅子に座り、テーブルの上で手を組んだ。

「今更、何を言っても遅いんだけど…何も変えられないくせに、中途半端なことをして…あなたをこんなに苦しめることになってしまって、ごめんね…」

ローリエがぽつりとそう言ったが、シャープは窓の外を見ているだけである。目は全く動かず、まぶたに些かの動揺も見られない。 そんな状態のシャープに話しかけていることが少し奇妙に思えて、ローリエは自嘲気味に苦笑した。

シャープと同じように窓の外を眺める。遠くに緑に覆われた山が見え、窓のそばを白い鳥が飛んでいった。 シャープの様子を横目で確認して何かを言おうとして口を開く。

「………」

だが声を出す寸前にそれを止め、また何かを話そうとしてはやめることを何度か繰り返した。 そうしている間も、シャープは呼吸しているのか分からないほどにわずかにも動くことはなかった。

ローリエは改めてシャープに向き直り、意を決したように口を開く。

「…これは、ぼくの独り言。大昔のことなのかもしれないし、割と最近のことなのかもしれない…ぼくにはもう、その感覚がなくなってしまったんだけど」

そう言って、白い湯気を立てている紅茶にそっと口をつけた。

「ぼくはね…どうしてここへ来たのか、分からないんだ。気づいたら、元々いた場所の景色が一変していて…ローズマリーの前にいた。 彼女はぼくを見て、すぐに…殺そうとしてきたんだけど…条件、みたいなのを提示されてね」

殺されるか生かされるかの状態で、条件も何もないんだけどさ、とローリエは笑いながら続ける。

「自分に仕えろ、って。ぼくはもう元の生活に戻れないし、友達にも会えないんだって分かって…彼女に従う事を選んだ。 それからこのお屋敷ができて、メイプルたちが作られ、アッシュの世話をするようになって…」

そういえば、今日はアッシュはどこにいるのかなとふと思い立って扉の方を見てみた。 しかし部屋の中は静寂そのもので、廊下からも何の音も聞こえない。しばらく意識が飛んだように呆けてしまい、ああゴメンね、とシャープに向き直った。

「…ローズマリーが何をしようとも、ぼくには変えることはできない。そして、誰も変えられない。ずっとずっとそう思い続けて、 自分で何かを考えることはしなくなってたんだ。ああ、もちろん掃除や屋敷の修理とか、執事としての仕事はちゃんと考えてやるんだけど。 …でも、それだけ。ぼくはただ、ここで生きているのか死んでいるのか分からない状態で存在しているだけで、いいんだ、って…」

思ってたんだけどね、と呟くように言ったところで深いため息をつく。ティーカップを両手で包んで下を向いた。 紅茶の水面から、少し開いた目蓋から金色の目がこちらを見ている。

「アッシュとアシュリィ…いや、フィルくんを入れ替わらせてローズマリーはいよいよ本格的に動き始めた。 そのときになってさえも、ぼくは何も思わなかった。ローズマリーのすることがどうであれ、なんであれ、受け入れるつもりでいた。…今もそうだよ。 けど、あの子…フィルくんに会ったとき、少し考えが…変わったのかもしれない。無意識のうちに…いや、考えるようになった、と言うべきなのかも…」

口元に手を当てて、どう表現すればいいのかと思案した。そうしている自分に気づき、また考えちゃってるね、と笑う。

「ぼくは、ローズマリーから与えられた使命だけをこなすつもりでいたんだよ。エアフォルクの子たちと同じだね。 だから、シャープ姫…あなたが殺されるとしても、凍らされるとしても、仕方ないことだって…思ってたんだ。 ローズマリーがすることだから、止めることなどありえないって…」

気を悪くしないでね、とシャープの顔を覗き込んでみたが、やはりシャープは一ミリも動くことはなかった。 少し安心した様子でローリエは続ける。

「でも考え続けるうちに…助けたいって、思ってしまうようになっちゃったんだ。目の前の人を、手に届く位置にいる人を、 どうして助けないんだ、って…だから…どうしかして、助けたくなってしまったんだ。シャープ姫、あなたと……メイプルを」

また紅茶を一口飲んで、ソーサーの上に置いた。カチャ、という小さな音が部屋の中でやけに響く。

「時を凍らされた人は、凍らせた人が死ぬことによってしか溶けることはない。ローズマリーはあなたを凍らせておいて 絶対にこの屋敷から出られないように…そして、自分で死を選ぶこともできないようにしたかったんだ。 つまり…メイプルにあなたを凍らさせ、必要になったらメイプルを殺してあなたを溶かす。そのつもりだったんだよ…だから……」

自分を落ち着かせるように ふうー、と深く息を吐き出した。

「…でも、何もできないなら何もするべきじゃなかった。結局、何かを良くするどころか最悪の結果を招いてしまった… メイプルがあんな形で殺されてしまったのも…あなたが、心を閉ざさなければいけなくなったのも、完全にぼくのせい。 謝っても遅いけど…本当に、ごめんね…」

顔を上げることができず、シャープから視線を逸らす。だがシャープから返事はなかった。 少しの間そうしていたが、やがて白い手袋のはまった手をテーブルについてよいしょ、とローリエは立ち上がる。

「…独り言につき合わせちゃったね。誰かに聞いてほしかったのかもしれない。…お茶が冷めちゃったね、入れ替えてくるよ」

そう言ってシャープの前に置かれていたカップを持ち上げ、ワゴンに載せる。 まだ半分紅茶が残っている自分のカップも回収し、手際よく退室の準備を整えた。

「ぼくはローズマリーの失敗を願えないけど…せめて、あなたの心が溶けるようなことが起こってほしいな」

それじゃ、すぐ戻ってくるからと言ってローリエは部屋から静かに出て行く。 ぱたん、と閉まった扉の方をシャープは見もせず、一切動かず、広い部屋から完全に音が消え去った。






「本当に…見事にこれだけで成り立ってるなあ…木は生い茂り、山から下った水は海へ…綺麗に循環してる。 鳥やら虫やら魚やら、飼育している施設もたっくさん。大規模な動物園みたいだねえ〜…」

カイはまた「アッシュさまのお屋敷」の近くをトコトコと歩いていた。建物の中や庭を観察し、時折すれ違う子供たちに手を振る。 カイに気づく者はおらず、皆わき目も振らずにそれぞれの業務をこなしているようだった。

「大体、高度は雲よりも少し下ってところか…雨も降るだろうし、朝は露でびしょびしょだから水には困らない、と。 しかし、海はどうなってるんだろう?水を保ってなんておけないだろうから流れ落ちてるんだろうけど……あ」

「アッシュさまのお屋敷」の窓に人影が見える。窓の外の方ではなく内側を見ているようで、頭の方しか見えなかった。 遠くてハッキリしないが灰色の髪色なのでアッシュかな、と思い近づくことにする。

自前の不思議な装置でこのアイテールまで来ているカイは、ふわりと浮き上がって屋敷の3階の窓まで飛んでいった。

「凍らせておいた方がいいならまたエアフォルクが出来上がるまで生産を試みるけれど」
「…ううん、その必要はないと思うよ。姫は完全に気力を失って、何にも反応を示さないほどになってる」
「そう。アッシュに凍らさせるわけにはいかないものね」

そんな会話を窓の外に浮かんで聞いていたカイだったが、その姿を見つけてローリエが あっ、と声を上げる。 ローリエと話していたローズマリーもローリエの視線に気づいて振り返った。

「どちらさま?どうやってここに入ってきたのかしら」
「どうも、お邪魔してます。その声…あなたがローズマリーだね」
「ええ。でもあなたも人間なら、私のことはちゃんと神様って呼ぶべきよ?」

そう言いながらローズマリーはローリエに手で合図を出し、ローリエはカイとローズマリーに一礼をしてから立ち去る。 ローリエが廊下の奥へ消えるのを見送り、ローズマリーは窓の外へゆっくりと向き直った。

「まだ返事を頂いてないわ。あなたはどうやってここまでやってきたの?まさか、海を越えてきたわけではないのでしょう?」
「これは失礼、私の名はカイ。ちょっとした道具を作るのが趣味でね。私の息子がこちらへ来てお世話になったようだから 座標を元に飛んできたって感じかな」
「へえ…なるほど、あなたが地上で天才と名高い、カイ王子様ね」
「よく言われるけど、私は自分を天才とは評価してないよ。自分がやりたいことを、自分がやりたいときにできるように努力しているだけ」
「ふうん…」

ローズマリーはカイを値踏みするように見上げる。カイの髪や服は、空気の流れに沿っては揺れていないのを見て小さく頷いた。

「ふふふ…神が認めてあげるわ。あなたは今の時代に相応しくないほどの知識と技術を持つ類まれな人物よ。 …神と共にテラメリタを作り上げましょう。その能力はそのために生かされるべきだわ」
「…テラメリタ?それはこの前言っていた、人類滅亡計画のことかな」
「それだけが目的ではないわ。それは一つの過程。言ったでしょう、神である私が選び取った者だけが私の管理下に置かれて生きるのよ。 そのためにも、人間は一度完全に滅びねばならないの。一人でも生き残りが存在しないように、完璧で合理的な方法によってね」
「ん〜…その合理的な方法って?」

カイはローズマリーの言葉に否定も肯定もせずに続きを促す。ローズマリーは大げさに両手を広げて誇らしげに語り出した。

「時の力を持つ私にしかできない方法よ。光と闇の力によって時の力を呼び覚まし、空を巡らせ…時空を遡るの。 そして天地を破滅させた神々の大戦の時世まで時を巻き戻し…メルディナの始祖となった最初の二人の人間だけが生き残った世界にするのよ」
「………え?」


    






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