「これ、お母様に作っていただいたブローチなの」
「一番好きな食べ物は、お母さんのパンケーキかな」
「試験の結果が酷くて母さんに怒られちゃって・・・」

学校の友達が、何気なく話していること。日常の会話。

・・・お母さん。

ぼくには、お母さんはいない。おばあさまはいるけど、お母さんはいない。

城にいるときは気にもしなかったけど、学校で一つ年上の友達がたくさんできて、話して、初めて実感した。ぼくには、お母さんがいない。

「ただいま・・・」
「おかえり、フィル。どうした、元気がないぞ?」
「ううん・・・」

父さんが大量の書類から目をはなしてペンを置いて、歩いてくる。しばらく顔を覗き込まれた後、おでこに手を当てられた。

「・・・熱があるじゃないか。荷物を置いて、ちょっと横になりなさい」
「・・・・・・うん」

そっか、熱があったのか。そういえばぼーっとすることもあったし。お昼ごはんはほとんど食べてない。そういえば、頭が痛いような気がする・・・。

学校のカバンから重い教科書を出して机に置いて、カバンを机に引っ掛ける。そして手を洗ってうがいをして・・・あれ、やっぱり足元がフラフラするな・・・。

「薬を持ってきたぞ、その前にちょっと何か食べた方がいいだろう。・・・って、あれ、寝ちゃったか」

父さんがパンのおかゆが入った容器と粉薬が入った薬包紙と水がのったお盆をテーブルの上に置いて、また部屋から出て行ってしまった。

しばらくして帰ってくると、冷たい水が張られた洗面器と薄ピンク色のタオルがその手にあった。

「まずは熱を下げさせないと・・・風邪かなあ」

そう言いながら父さんはタオルを水につけてぎゅっと絞った。それをぼくの額にそっとのせる。

「・・・・・・さ、ん」
「ん?」

無意識にぼくの口から出た言葉に、父さんが反応して顔を近づける。

「おかあ・・・さん・・・」
「・・・・・・!!」

父さんの手が止まった。洗面器から水が少しはねた。

「ぼくの・・・おかあさん・・・ど・・・こ・・・」
「フィル!!」

父さんが声を上げる。でもその声に反応がないから、ぼくが寝てることが分かったみたい。

「・・・おか・・・あさん・・・どこに・・・」

お母さん、と、ぼくがうわごとを言うたびに、父さんの青い目が見開かれる。

「フィル・・・フィルには、お母さんはいないんだ。でも、誰よりもお前を愛しているお父さんがいる。親が一人だから愛情が半分なんてことはないぞ、私はフィルのことを母親の2倍、いやそれ以上、 何人分も、何倍も、愛している。フィル、私がいるぞ。なにがあったって、私がそばにいる。だから、お母さんがいなくたって、寂しくないだろう・・・?お父さんがいるじゃないか・・・」

うなされているぼくに、父さんが優しく語り掛けてくれてる。父さんが布団越しにお腹をぽんぽんとあやすように叩いてくれてる。

安心したのか、ぼくは声を出さなくなった。その代わりに安らかに寝息を立てる。

それを確認して、父さんが布団の上でぎゅっと手を握り締めた。強く握りすぎて、手が震えてる・・・。

「フィル・・・・・・母親がいないのは、どうしてやることもできないんだ・・・」

泣いてる・・・?

「私を許してくれ・・・寂しい思いをさせたくなかったのに・・・ごめん、フィル・・・」

な、泣かないで。泣かないでよ。そうだよ、分かってるよ、ぼくには父さんがいる。父さんがいれば十分だよ。 どうしてぼくは父さんを困らせてるの?なんで父さんを泣かせるの?

・・・あれ、どうしてぼくはぼくを上から見てるんだろう。今のぼくはあんなにちっちゃくないし、父さんも・・・15、16歳ぐらいに見える・・・。

えっ、そういえばぼくは今、シャープ姫の身代わりになって婚約式の真っ最中だったはず!学校から帰ってきたところじゃない、セレス王子の隣に座っているはずなのに・・・?

でも、あそこで父さんが泣いてる。何も言わなくなったぼくに、必死に語りかけてる。 分かってる、分かってるよ。父さんがぼくのことを二人の親以上に愛してくれてることを。親孝行するからね。今までのお礼を、絶対にするからね。

だから泣かないで。父さん・・・!

「父さんっ・・・!!」

がばっ、と、身を起こした。その勢いで、目にたまっていた涙が頬を滑り落ちる。

「え・・・あれ・・・?」

今のは夢?
確かに、熱があって帰ってきてすぐに寝ちゃった日が、あの年齢ぐらいの時にあったけど・・・。

え、でも、どこまでが夢?婚約式はどうなったの?もう終わったの?いつの間にか寝ちゃってたの? まさか、シャープ姫の代わりになってほしいってセレス王子に頼まれたのも夢?それとも、シャープ姫がいなくなったことも夢?

頭がどんどん混乱してきた。でも、ついさっきまであった重いドレスの感触も瞬きするたびに口を動かすたびに感じる化粧の違和感もない。 改めて我が身を見てみると、白くて青のラインが入った服を着ていた。腰と腕には黒のインナーも見える。

でも下を向いて顔の左右に垂れてくる髪は、いつもの自分の髪だ。シャープ姫のカツラじゃない。

「な、なにこれ・・・・・・ここはどこ・・・??」

だだっ広い石の床の部屋に、寝転がっていたらしい。遠くには大きな扉が一つある・・・窓もあるけど、座っていると角度的に空しか見えない。

フィルは立ち上がった。

履いている靴と床がぶつかってカツーン、と硬い音を立てる。自分が寝ていたところを振り返って見てみると、そこだけ床の模様が違った。

「・・・・・・?」

大きな円と、中にはなにやら見たことのない文字がごちゃごちゃと並んでいる変わった模様だった。 しゃがんで触ってみたが、特に何も起こらない。ツルツルの床に映る自分の顔も、鏡ではないので少々不鮮明だがいつもの顔だ。

また立ち上がって、窓に近寄ってみた。

「セレナードの王宮・・・?どこの部屋だろう・・・」

外はそろそろ夕日になりそうな太陽と草原と海が見えたが、高い建物からの景色のようだった。部屋の中にいるので建物の全貌は見えないが、相当高さがある建造物のようだ。

人通りも見えず、何も得られなかったので今度は扉に向かった。

「・・・開いてる」

ノブを捻ると、大きな扉が簡単に開いた。外に出て、音が立たないようにゆっくりとまた扉を閉じる。

やはり城の一室だったようで、幅広な廊下が広がっていた。左右を順番に見てみたが、通行人は誰もいない。

少し歩いたところには大きな窓があるため、そこから先ほどとは反対側の外が見られる。人が通りかかったらどうしよう、自分のことを尋ねるべきか。隠れた方がいいのか・・・。 考えがまとまらないまま、一歩踏み出した。

「新しい森で、遊ばせてこようかなって思うんだー」
「ああ、それはいい案ですねえ・・・私も是非ご同行させてくださいな」
「ならちゃんと起きなさいよ、起きてたって寝てるんだから」

そのとき、複数人の女性の声が遠くから聞こえてきた。

うわ、どうしようどうしよう。ここがどこなのか分からないのに、人に見つかるのはまずい。

逃げるか・・・間に合うかな。

「逃げようっ!」

フィルは話し声がする方と逆方向に走り出した。ああ、やっぱり走りやすい格好が一番だ・・・と、しみじみ思う。

「あれ?ねえ、あそこにいるのって」
「ああっ!どうしてここに?待ってくださいっ!」

あと少しで角を曲がれそうだったのに、女の子たちが気づいてしまった。もっと走るスピードを上げる。女の子よりは走るのは速いはず・・・!

と、思ったら。

「え・・・あれ、なにここ、行き止まり・・・?」
「つかまえたーっ!」

なにやら背丈の何倍もある巨大な扉が目の前に現れた。窓も他の扉もない、行き止まりに来てしまったのである。

その結果、あっという間に追いつかれてつかまってしまった。

「そんな照れて走って逃げ出さなくたって〜。もー逃がさないもーん」

花の髪飾りの金髪の少女がフィルの腕にべったりとくっついてきた。その少女を引き剥がそうとしているのは濃い紫色の髪をお団子にした女の子だった。

フィルとはまだ面識がなかったが、アリア、シェリオ、レックの3人が城の中庭で遭遇したメイプルとヴァイオレットという謎の二人である。

「ちょっとメイプル!抜け駆けするんじゃないわよっ!アッシュさまがイヤがってらっしゃるわ!!」
「いーだ、ヴァイオレットよりメイプルちゃんの方がずっと強くて可愛いもーん。 アッシュさま、イヤなんかじゃないですもんね〜、ねっ、メイプルちゃんと一緒にお散歩行きましょ」

アッシュさま?だ、誰だそれ?誰かと勘違いしてる・・・?セレナードの王宮で「アッシュ」なんて名前の、様付けで呼ばれるような偉い人いたっけ・・・。

自分を見てフィルだと認識されていない以上、フィルではないことがバレてはいけない。 そう思ったフィルは脳をフル回転させながら彼女たちとやり取りを行うことにした。

「や、やあ・・・二人とも・・・逃げるっていうか、いきなり走って来られたから驚いちゃって・・・」
「あれー?やだぁ、なんかアッシュさま優しいっ!」
「ホント、いつもならお話なんて滅多にしてくださらないのに・・・」

そ、そうなんだ。どんな人なんだ「アッシュ」って・・・。こんなにベタベタしてこなければこの子達結構可愛いのに、クールな人なのかなあ・・・。

そう思っていると、メイプルとヴァイオレットの後ろからゆっくりともう一人の少女が近づいてきた。

「待ってくださいな〜」
「あらカリン。相変わらずトロいわねえ、途中で寝てたの?」
「寝てませんよ〜。お二人が突然走り出してしまうんですもの・・・あら、そちらの方は?」

薄紫色の髪でオレンジ色のスカートがよく似合うおっとりした子だった。頭と腰に黒い蝶々のようなリボンをしている。

カリンはメイプルとヴァイオレットの間から顔を覗かせた。

「なに言ってるのカリン?アッシュさまじゃない。カリンったらいつもぼーっとしててなんでもすぐ忘れちゃうんだから」

ヴァイオレットがあきれたように首を横に振る。対策を練るためにひたすら3人を観察していたフィルは、カリンにも話しかけてみることにした。

「どうしたんだい、カリン?」
「あら〜・・・?」

フィルの発言に3人が黙ってしまった。カリンは物珍しそうにフィルを見上げている。しまった、キャラが違ったのかもしれない、とフィルは焦る。 もうちょっと男らしくした方がいいのだろうか?

「え、ええと、俺この部屋に用事があってさ。急いでたんだよ」

今度は一人称を変えてみた。すると三人は納得したようにそれぞれ頷いた。

「この部屋に入れるのはアッシュさまだけですものね。あとは・・・ローリエもだったかしら?」
「ってことは、次のお仕事もらえるんですか!あ、ちゃんとランフォルセは探してるところですけど!」
「・・・・・・ランフォルセ?」
「私は〜、もうちゃんと全部こなして参りましたよ〜。お次の指令をお待ちしてます〜」
「あ、うん、じゃなくて・・・・・・おう・・・」

そしていなくなってくれるのかと思いきや、扉を開けて入っていくのを見送ってくれるつもりらしい。3人はじーっとフィルを見守ってくれている。

フィルは改めて巨大な扉を見上げてみた。少し高い位置だが、一応取っ手はついている。だがあまりに巨大なので押して開くか分からない。

少女たちがどこかに行ってくれそうもないので、フィルは意を決して扉に手をかけた。と、思ったらその扉は勝手に開いた。

「・・・え?」

扉の奥から、微笑をたたえた黒髪の執事の青年、ローリエが出てきた。フィルは思わず扉から手を離して後ずさる。

「え、ええと・・・」

どうしよう、また知らない人、つまり誤魔化す対象が増えてしまった。焦るフィルを気にせずにローリエはぐるりと全員を見回す。

「皆様お揃いで。アッシュ、予定の時間より随分早いね。どうしたの?」
「あ、あ、あ・・・あの・・・」

何か言わないといけないが、もういっぱいいっぱいで言葉が出てこない。戸惑っているフィルを見て、ローリエは少し目を見開いた。

「・・・そうだ、次の御用事が入っていましたね。アッシュ様、こちらへどうぞ」

そう言ってローリエはフィルの手首を軽く掴んで引っ張った。バランスを崩してよろけ、フィルはローリエの後を歩くことになった。

「アッシュさま、この部屋に用があるんじゃなかったの?それなら私とお茶を飲みましょうよ」
「違うよ!メイプルちゃんとお散歩に行くんだもん!」
「なによ、ローリエもメイプルも邪魔しないでちょうだい!」
「メイプルちゃんの方が先に言ったんだから!ローリエ、アッシュさま返して!!」
「あははは・・・」

ローリエが苦笑しながら振り返った。

「二人ともゴメンなさい、アッシュさまにお話しないといけないことがあるんだよ」
「ええ〜・・・じゃあメイプルちゃんも連れてってよ!」
「そうよ、ずるいわよローリエ!!」
「まあまあお二人とも。男と男の話し合いなんてカッコイイじゃないですか〜。うふふふ」

いきり立つメイプルとヴァイオレットとは対照的に、カリンはのほほんと口に手を当てた。そのカリンの発言に、ローリエは がくっと力が抜けた。

「カリン、そういうわけじゃ・・・」
「そーだよ、それ言ったらヴァイオレットも男じゃない」
「そうよそうよ、男女差別?」

その会話に、今度は先頭を歩いていたフィルが吹っ飛んだ。

「はっ?!・・・え、あ、ええ!?」
「・・・どうなさったの、アッシュさま」
「いかがされました〜?」
「お、お、おと・・・とっと、お、お・・・おとっ・・・!?」
「弟?」
「おっとっと?」
「オトシブミ?ウスモンオトシブミのことかしら?それともカシルリオトシブミ?」

衝撃のあまり本当に転びそうになっているフィルをローリエが支えた。そして、前屈みの状態で耳打ちをする。

「3人に囲まれるより、ぼくについてきた方がいいと思うよ。ね」
「・・・・・・。」

確かに、バレるバレないの問題よりも勢いのある女の子たちを相手するのは疲れる。女の子ではないのも混じっているようだが・・・。

フィルに前を歩かせ、ローリエは3人に振り返った。

「そうだこれ、ノームパッチを預かってるよ。入れておいてね」
「きゃああっ!私のよっ!!」
「メイプルちゃんが先だもん!!」
「私が一番がんばってますのに〜」
「・・・大丈夫、3つあるから」

ローリエは白くて薄いクラッカーのようなものを投げた。3人はそれに殺到し、その隙に歩くスピードを上げる。

曲がり角に来るとローリエがフィルの肩を持ってくるっと右に向けた。そのまま また急いで前進し、曲がり角で無言で方向を決められてまた歩くを繰り返す。

途中で子供が何人か通りかかったが、特に二人を気にする様子もなくすれ違った。掃除婦の格好をしている子もいて、仕事中で目に入らなかったのかもしれない。

広く長い廊下といくつもの部屋、ここは本当にどこのお城なんだろうと思い始めたとき、両肩をがしっとつかまれてフィルは自動的に停止した。

そして目の前の扉を後ろからローリエが押して中に入った。

「・・・・・・。」

言われるままに、促されるままに部屋に入ってきてしまった。

用心深く部屋を見回すが、中には小さめのテーブルとその周りに何脚も赤い椅子が置かれており天井にはシャンデリアが一つ、 壁には大きな風景画が二つというよく見るサロンのようだった。

フィルが入ると扉が閉められた。カギはあるようだが、施錠された音はしない。

フィルは振り返り、ローリエと改めて対峙した。

「アッシュさま」のフリをして話しかけた方がいいのだろうか。だが、この執事の装いをした青年はもう自分が「アッシュさま」でないことを悟っている様子だった。

どうしようどうしよう、とフィルが足元を見つめながら頭をフル回転させていると、 ローリエは後ろからひょっこりと顔を出した。

「あんまり時間はないけど、選ばせてあげるよ」



    






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